リヴァプール・ニュース

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ビートルズ

【さよならキャヴァーンの母】
ビートルズの登場やマージービートの爆発を見守り、キャヴァーン・クラブの良心のような存在だった女性が亡くなりました。
テルマ・ウィルキンソンさんは、1957年のキャヴァーン・クラブのオープン初日から、店内のスナック・バーで働きました。スナック・バーの責任者であっただけでなく、クロークルームのスタッフのまとめ役でもありました。よく知られているように、後にスターになるシラ・ブラックは、そのクロークルームで働いていました。

テルマの娘、サンドラ・カリーはこう話しています。
「マムはキャヴァーンが開店した時からあそこで働いてたのよ。最初はジャズ・クラブだったんだけど。それでクラブが閉店するまでずっとあそこにいたの」
「“スナック・バーのテルマ”って、みんなに憶えられてたわね」
「マムはキャヴァーンを愛してたの。だって人生の大部分を占めてたんですからね。音楽が本当に大好きで、マージービートが生まれるところをしっかり見届けたのよ」
「マムはジェリー・マースデンのアイドルみたいになってたのよね。彼はいつも“マ”って呼んでたし、マムはジェリーを“息子”って呼んでたわ」

キャヴァーンで活躍したミュージシャンたちの前に最後にテルマが姿を現したのは、2002年、「伝説のDJ」ボブ・ウーラーの葬式の時でした。

娘のサンドラによると、昨年、ビートルズ研究家として知られるマーク・ルイソンがテルマの元を訪ねて、新しい本のためにインターヴューをしたそうです。
「彼が言うには、これまで彼が書いたのよりももっと分厚い本になりそうってことだったわ」

1960年代のキャヴァーンのオーナーで、ジャズ・クラブだったキャヴァーンにロックン・ロールを導入したレイ・マクフォールも、テルマの死を悼んでいます。
「テルマは、アラン・スタイナーがキャヴァーンをジャズ・クラブとしてオープンしたその日から、スナック・バーの責任者でしたよ。閉店するその日までずっとね」
「当時のキャヴァーンの常連の多くが、彼女の温もりを憶えているはずですよ」
「やさしくて気取りのない、フレンドリーな女性でした。よく働いてくれましたし。だからこのニュースはほんとうに悲しい」

ジェリー&ザ・ペースメイカーズのジェリー・マースデンはこう言っています。
「俺たちは彼女のことをマムみたいに思ってたもんさ」

テルマがアラートンの自宅で亡くなったのは、12月4日でした。84歳でした。 (12月10日)

【ブルー・ホワイト・アルバム】
なんと、青色の「ホワイト・アルバム」が、近々「ビートルズ・ストーリー」ミュージアムで展示されるそうです。
ビートルズが1968年に発表したこの2枚組アルバムは、正式なタイトルは『ザ・ビートルズ』ですが、その真っ白なジャケットからつけられた「ホワイト・アルバム」の通称の方がよく知られています。
最初のリリースから10年後の1978年、ビートルズのレコード会社EMIは、「ホワイト・アルバム」を1000枚だけの限定で白いヴィニール盤にプレスして発売しました。
しかし、青いヴィニール盤にプレスされたホワイト・アルバムは、過去に発売されたことはありません。世界にこの1枚だけです。

この「青いホワイト・アルバム」をビートルズ・ストーリーに寄贈したのは、49歳のTVカメラマン、コリン・マクドナルドさんです。
コリンさんは、1978年当時、ミドルセックスのヘイズにあったレコード製造工場で働いていたそうです。白いヴィニールへのプレスを終えたホワイト・アルバムのマスター・コピーがロンドンの保管所に送り返されようとしていたその時、コリンさんの目の前には、リンダ・ロンシュタットのシングル「ブルー・バイユー」の青ヴィニール・エディションを製造している機械があったのだそうです。そしてコリンさんは、出来心で「青いホワイト・アルバム」を作ってしまったのです。

コリンさんの話です。
「売ったらいくらになるかなんて考えたことはないよ。ひとりのビートルズ・ファンとして、ちょっと変わったもの、他の誰も持ってないものを所有したかってだけなんだよ。実際、それから90年代半ばくらいまでうちのロフトにほったらかしにしていたしね。ツェッペリンとかフロイドとかパープルとかのLPと一緒にね」

その後コリンさんは、そのレコードがどのくらいの価値があるのかを知りたくなり、オークショナーのサザビーズに持って行ったのだそうです。
「そしたらEMIに怒られちゃってね。だからもうお金のことは考えないことにしたんだ。それなら、熱心なビートルズ・ファンの誰もが見られるようなところに展示したらいいんじゃないかって考えたわけ」

驚いたことに、この「青いホワイト・アルバム」のジャケットには、ポール・マッカートニーがサインしています。
後にポールとTVスタジオで会った際に、コリンさんがもらったものだそうです。
ポールもまさか、中に青いレコード盤が入っているとは夢にも思わなかったことでしょう。

ビートルズ・ストーリーのマネージャー、ルイーズ・コリエルはこう話しています。
「自分たちの目が信じられなかったわ。音楽関係のメモラビリアとしては最高に珍しいもののひとつでしょうね。一生に一度あるかないかってくらいの。コリンの厚意のおかげで、世界じゅうからやって来るビートルズ・ファンが、この世に1枚しかないこのアルバムを見ることができるんです」

「レコード・コレクター」誌のビートルズ・エキスパート、ピート・ナッシュによると、このレコードは、控えめに見積もっても5000ポンド(約114万円)の価値があるだろうということです。 (11月26日)

【ジョンの借金、ポールの電話】
70〜80年代に、ウェヴァトリーのピクトン・ロードにある楽器店 The Plug Inn で働いていたトニー・ボランドさんが、当時の回想録を出版しました。
本のタイトルは『 The Plug Inn: The Forgotten Years 』で、18日には出版記念パーティーがマシュー・ストリートのキャヴァーン・クラブで行われました。
この店には、地元の有名ミュージシャンはもちろん、公演でリヴァプールを訪れた数々のメジャー・アーティストたちも訪れたそうです。

現在49歳のボランドさんは、こう話しています。
「なにしろファニーがことがいっぱいあったからね。働き出したティーンエイジャーの時から、取っとけるもんはみんな保存しておくことにしてたんだよ。プラグ・インからの採用通知だってあるよ」
「あの店で働いてる時分には、自分自身のヒーローたちにたくさん会えたもんさ。ピーター・ゲイブリエルやスティング、ザ・ポリスとかホット・チョコレートに楽器を売ったよ。今名前を挙げたのはほんの一部だけどね」
「びっくりするようなことも時々あったな。店に借金してる人のファイルを見てたら、そこにジョン・レノンの名前があったんだよ。35ポンドの未払いだった。ビートルズが世界的なスターになって何年も経ってたんだけど」
「ポール・マッカートニーと話したこともあるよ。僕が16の時だ。ベースのマシンヘッドについて訊かれたんだけど、もうショックっていうか畏れ多くてね。でもなんとか勇気をふりしぼって答えたんだ。最後にウイングスのコンサートのバックステージ・チケットをあげるよって言って電話が切れたんだけど、ほんとに信じられない気持ちだったなあ」 (11月19日)

【復活を願って・続編】
閉館した「ウールトン・シネマ」を救うキャンペーン「セイヴ・ウールトン・シネマ」がスタートし、劇作家のウィリー・ラッセルやジョン・レノンの最初のバンド「クォリーメン」のメンバーたちが支援を表明しています。

「現存するリヴァプール最古のシネマ」であり、「リヴァプールで最後の個人経営シネマ」だったウールトン・シネマは、オーナーの死によって経営が困難になったため、今年の9月3日に閉館しています。

79年もの長きにわたってウールトンの住民に親しまれてきた歴史的なシネマをこれからも残そうと、200名を越えるキャンペーンの支援者が集まりました。
キャンペーンのオーガナイザー、グレン・シンプソンとサリー・モリソン=グリフィスは、ウールトン・シネマを救うために50万ポンド(約1億1500万円)を集めようとしています。
「セイヴ・ウールトン・シネマ」のウェブサイト www.savewooltoncinema.co.uk では、オンラインでも寄付を募っています。

サリーはこう話しています。
「私たち、『ピケット』のフィル・ヘイズに相談しているんです。ピケットは数年前に閉鎖になったけど、キャンペーンが成功して、新しい場所で見事に再オープンしたでしょう?」
「それで今、私たちは協力しあって資金集めのギグをやろうとがんばっているんです。12月中になんとできたらって」

ウィリー・ラッセルはこう話しています。
「私にとって、世界中でいちばんお気に入りの映画館なんだよ、ウールトン・シネマはね。それに、このシネマの存在は、ウールトンをユニークな場所にしている要素のひとつになってると思う。私たちのキャンペーンがなんとか実を結んで、このシネマに未来を見つけてやれたらって思っている。実に多くの人が、ここには特別な思いを抱いてるんだからね」

ジョン・レノンの最初のバンドで、後にビートルズに発展した「クォリーメン」のメンバー、ロッド・デイヴィスとコリン・ハントンも、このキャンペーンをサポートしています。クォリーメンは現在も演奏活動を続けています。
ロッドはこう話しています。
「コリンは土曜日の午前にやってたマチネーによく行ってたそうだよ。『フラッシュ・ゴードン』とか『スーパーマン』とかいろいろ観たって」
「クォリーメンのメンバーとか、バンドの周りにいた連中も、みんな『ウールトン』の常連だったよ。それは確かさ。ナイジェル・ウォーリーにアイヴァン・ヴォーン、ピート・ショットンに、それからもちろんジョン・レノンもね」 (11月12日)

【ビートルズの椅子に200万円】
10月26日、サウスポートで、BBCの長寿人気番組「アンティークス・ロードショウ」の収録が行われました。
その街に住む人々が自宅にあるアンティークを持ち寄って専門家に鑑定してもらうというこの番組、会場となったフローラル・ホールには、早朝から2500人以上の人々詰めかけました。
記録的な大盛況を目のあたりにしたBBCの上層部は、2週に分けての放送を検討しているそうです。

持ち込まれたアンティークの中で最も珍しいもののひとつが、「ビートルズが使用したペアのバーバー・チェアー」でした。
「ボナムズ・オークショナーズ」の鑑定士ジョン・バダレーは、この椅子に、1脚につき1万ポンド(約226万円)の値をつけました。

また、サウスポートのレストランが5ポンド(約1200円)で購入した木製の電話ボックスには、1000ポンド(約22万6000円)の値がつけられました。

「アンティークス・ロードショウ」のスポークスウーマン、オルエン・ガレスピーは、こう話しています。
「今回のサウスポートでは、記録的にたくさんの人々が集まってくださいました。これまでで最高ににぎわったロードショウのひとつですね」
「素晴らしいアイテムがたくさんありましたから、2週に分けることになるかもしれません」
「ザ・ビートルズが使ったバーバー・チェアーは、最も興味深かったもののひとつですね。ビートルズにちなんだものは他にもたくさんありました」
「持ち込まれたアイテムのクォリティはとても高かったですね。あの珍しい木の電話ボックスを見ることができたのは素晴らしかったです」

サウスポートのフローラル・ホールが「アンティークス・ロードショウ」の会場になるのは、1982年以来で、24ぶりのことでした。

セフトン・カウンシルのツーリズム・マーケティング・マネージャー、スティーヴ・クリスチャンはこう話しています。
「アンティークス・ロードショウ」がサウスポートにやって来たというのは、素晴らしいニュースですね。地域の住民が喜んで終わりじゃなくて、この街を全国的に宣伝することができたと思います」
「この街は今、ドラマのロケ地としてどんどんポピュラーになって来ています。あの "Coronation Street" や "Hollyoaks" 、他にもたくさんの人気番組がここで収録されていますからね」

サウスポートで収録された「アンティークス・ロードショウ」は、来年2月4日にBBC1で放映される予定です。 (10月29日)

【ショーン・レノン インタヴュー】
来月にリヴァプールでコンサートを行うショーン・レノンが、地元紙「リヴァプール・エコー」のインタヴューに答えています。
以下に抜粋して紹介します。

(10月9日に31歳になったショーン。父ジョンと同じ誕生日であることについて)
「僕にとってはやっぱり特別な日だね。誕生日にはいつも、親父のことをいろいろと考えちゃう」
「365分の1の確率なんだろうけどね、でもあの親父と同じ日に生まれたってことは嬉しいな」

(ファースト・アルバム『イントゥ・ザ・サン』以来、なんと8年ぶりの新作『フレンドリー・ファイア』をリリースしたばかりのショーン。しかし彼は、ヒットチャートでの成功にはまるで興味がないと言います)
「僕はスターなんかじゃないよ、ぜんぜん」
「自分で自分のプロモートをするのって、すごく面倒くさい。大嫌いだ。絶対無理ってわけじゃないけど、すごく居心地の悪い思いを我慢しなきゃいけない」
「っていうか、僕は自分がコマーシャルな人間だとは全然思ってないんだよ。だからそういうゲームには参加するつもりはない」

(ジョン&ヨーコの息子としてのプレッシャーについて)
「ダッドみたいにならなきゃってプレッシャーは感じないな、正直言って。うまく言えないけど、僕に対する偏見みたいなのを感じるのは、批評とかで、僕がレノンの息子ってことにこだわってる人が何か書いてるのを読んだ時くらいだよ」
「とは言っても、曲を書いたり演奏したりってのが今の僕の日常生活なわけで、結局親父と同じようなことをしているわけだよね。でも、誰かの期待に応えるためじゃない。そういうプレッシャーは僕にはないよ」

(リヴァプールについて)
「リヴァプールには2度ほど行ったことがあるんだけどね。わかってもらえるかな、僕にとっちゃ実にヘヴィーなことなんだよ。どうしたってダッドを亡くしたことの大きさみたいなものを突きつけられることになるから。それにイングランドには親しい知り合いがいるわけじゃないから、リヴァプールでひとりぼっちってことになる。で、こう感じることになる。ワオ、ここは僕のヒストリーや僕のダッドにとってものすごく大事な場所だ。けれども、僕からは取り上げられてしまった」
「取り上げられてしまったってのは適切な言葉じゃないかもね、でも、少年の頃の僕が失ってしまったものなんだよね」

(そう言った後ショーンはしばらく考え、言葉を継いだ)
「リヴァプールはね、ダッドがいない喪失感みたいなものを僕に意識させるところなんだ」
「もし親父が生きていれば、きっとリヴァプールのことを話して聞かせてくれただろうし、連れて来てもくれただろう。そう思う。僕にとってはいろんな意味を持った場所なんだ」
「でも、ビートルズを抜きにしても、リヴァプールは今もヒップな音楽の街であるのは事実だよね」

(亡き父とは、彼の残した音楽を聴くことによって一体感を感じることができるとショーンは言います)
「たくさんの音楽を残してくれたのはラッキーかなって思う。だって愛する人を失った人で、僕ほどたくさんの思い出を残してもらった人ってそんなにたくさんいないと思うから」
「音楽を残してくれてよかったみたいなことを今言ったけど。でも僕はラッキーだって言うのはヘンだよね。だって生きててくれるほうがよっぽどいいもん」

(父と同じ音楽の道を進むショーンですが、苗字を利用して父の足跡をなぞることにはまったく興味がないように見受けられます)
「ビートルズとか親父の音楽を、僕が意識して避けてると思ってる人がたくさんいるみたいだけど。でも別に距離を取ろうと思ってるわけじゃないよ。ビートルズを聴いてなかったら音楽をやってたとは思えない。影響受けてるよ」
「ファミリーって感じかな。元々の居場所さ。ビートルズのおかげで、僕はミュージシャンになるべく育ったんだ」
「ビートルズは大好きだよ。でもお気に入りのビートルズ・ソングは? なんて訊かれてもデタラメに答えるけどね」
「そうだな、お気に入りの色は? とかお気に入りの本は? なんて訊かれてもデタラメに答えるよ。そんなのいっぱいありすぎて答えられないもん」

(新作、そしてソングライティングについて)
「愛の終わりや、すべての終わりについての歌を書いて、『フレンドリー・ファイア』っていうタイトルにしたんだ。愛し合う人同士が傷つけあうことがある。そのメタファーにちょうどいい表現だと思ってね」
「え? でも僕の歌はドキュメンタリーじゃないよ。実際にあったことをそのまま歌にしてるわけじゃない。歌ってファンタジーだもん。実生活にインスパイアされることはあるけど、同時にドリームとかイリュージョンだってたくさん歌に入ってるよ」

ショーン・レノンのリヴァプール公演は、11月4日、スタンレー・シアターで行われます。 (10月22日)

【復活を願って】
ウールトン・ヴィレッジにある映画館「ウールトン・シネマ」が、78年の歴史に幕を閉じました。
今年6月、ウールトン・シネマのオーナー、デイヴィッド・ウッドが59歳で亡くなったことにより、未亡人のフラーはシネマの存続は困難と判断し、閉館を決心しました。

9月3日、午後7時30分から、最後の映画が上映されました。
特別なセレモニーは何もなく、普段と変わりない、いつもどおりの上映となりました。
古き良き時代の面影を残す客席には、およそ185人の観客と20人のスタッフが座り、「パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン2:デッド・マンズ・チェスト」を一緒に観ました。

マナージャーのジュディ・ボールは、映画のインターヴァルの間に、スナック・トレイで、ウールトン・シネマ最後のアイスクリームを売り切りました。このシネマの常連たちに愛された、1950年代風の伝統的なスタイルです。
終了後、ジョディはこう話しています。
「何か記念になることをしたいと思う反面、派手にはしたくないって気持ちでもあったの。誰かが亡くなったからクローズするわけでしょ。だから追悼のアトマスフィアはキープしたかったのよ」
「スタッフにとっては悲しい夜よね。常連の何人かにとっても。でもみんな楽観的でいようとしてるわ。だってわたしたちみんな、これをファイナル・エンディングにしたくないって思ってるから」

ウッド・ファミリーとシネマのスタッフたちは、ウールトン・シネマの銀幕に再び光が灯される日が来ることを願っています。
ウッド夫人の元には、現在、映画館として興味を示す7つのバイヤーと、再開発を希望する1つの企業からのオファーが届いているそうです。

ウッド・ファミリーがシネマの経営を始めたのは、およそ100年前に遡ります。
1908年のボクシング・デイに、亡くなったデイヴィッド・ウッドの祖父が、ウォルトンに「べドフォード・ホール」というリヴァプール初の映画専用のホールをオープンしたのがそもそもの出発点でした。
べドフォード・ホールは大成功し、「べドフォード・シネマ」チェーンとして、次々に新しい映画館がオープンしました。その中には、ジョン・レノンのいちばんのお気に入りの映画館だったウェヴァトリーの「アビー・シネマ」も含まれていました。

しかし、デイヴィッド・ウッドの代になると、映画の配給事業の方に興味を持っていた彼は、シネマの経営をほとんどやめてしまいました。
そのデイヴィッドが、唯一、情熱を持ってシネマの経営にあたったのが、ウールトン・シネマだったのです。彼は1992年にこの歴史のあるシネマを買収しました。

ウールトン・シネマは、1927年のボクシング・デイに、「ザ・ピクチャー・ハウス」の名前でオープンしました。
シングル・スクリーンでキャパシティは256席という小さな映画館です。
ジョンが通っていた教会であり、ポール・マッカートニーと出会った場所でもあるセイント・ピーターズ教会のすぐ近くにあります。
このシネマのあるウールトン・ヴィレッジは、少年時代のジョン・レノンが毎日のように遊びに来たところです。映画好きであったジョン・レノンのことですから、きっとこの映画館に何度も足を運んだことでしょう。

最後の上映の後、ウールトン・シネマの電話ではこんな録音メッセージが流されています。
「ウールトン・シネマにお電話くださり、ありがとうございます。たいへん残念ですが、現在このシネマは閉館中です。これまでのご愛顧に感謝するとともに、またお会いできることを心より願っております」 (9月17日)

【ジョンの魂を合唱】
リヴァプールに住むジョン・レノン・ファン20人を選んで、ジョンの1970年のアルバム『プラスティック・オノ・バンド(ジョンの魂)』を1枚まるまる歌わせて、それをマルチ・スクリーンのヴィデオ作品にするというプロジェクトが進められています。

プロジェクトを進めているのは、南アフリカ出身でベルリン在住のアーティスト、キャンディス・ブレイツ。彼女は、この作品をまずリヴァプールで発表し、ゆくゆくは世界を回って公開したいと考えています。
ブレイツはこう話しています。
「30年とかそれ以上の年季のあるファンを選びたいわね。あと、カメラの前でシャイにならない人で、ジョン・レノンへのトリビュートを表現したい人」
「ぜひスカウサーに参加してほしいのよ。リヴァパドリアンのグループ抜きじゃあ、すごく寂しいもの」

ブレイツは過去に、ボブ・マーリーのアルバムでの同様のヴィデオ作品を制作しています。もちろん、ジャマイカの人々が歌ったものです。
ブレイツは続けます。
「家でアルバムを聴いてて、つい一緒に歌ったりするわよね。ちょうどそんな感じ。それをレコーディング・スタジオで再現したいのよ。ファンの人ばっかりを集めてね」
「ぜひリヴァプールの人たちに見てもらいたいわ。たぶんバイエニアルでね」 

このプロジェクトは、ヨーコ・オノからも承認されています。
「ジョンの魂」を歌うレコーディングは来月に行われる予定で、シンガーは現在公募中です。 (8月4日)

【サー・ポールの最初のギター】
サー・ポール・マッカートニーが生まれて初めてコードを鳴らした正真正銘の最初のギターが、まもなくオークションにかけられます。
そのギターの所有者はポールではなく、ポールのリヴァプール・インスティテュート時代の同級生で親友だった、イアン・ジェイムズ氏です。年齢はもちろん、ポールと同じ64歳です。

ジェイムズ氏は、この REX のアコースティック・ギターを、長年オームスカークの自宅のロフトにある箪笥の一番上に大切に保管していました。しかし、老後の生活のためにと、今回オークションに出品することを決意したのです。

このギターには、ポール本人による証明書が付けられています。
「ここにある、僕の昔の級友であるイアン・ジェイムズ所有のギターは、僕が生まれて初めて手にしたギターなのです」
「これはまた、リヴァプール8区のエルスウィッチ・ストリート43番の彼の家で、彼に教えてもらいながら僕が初めてコードを鳴らしたギターでもあるのです」

イアン・ジェイムズ氏は、こう話しています。
「ポールが音楽の道に進むのに、少しは手助けできたんじゃないかって思ってるんだ」
「このギターは、私が12か13のときに祖父が買ってくれたものなんだ。いくらしたのか、はっきりとは知らない。でもポンドまで行かなくて、何シリングかだったのは確かだな」
「ポールと私は、よくつるんで遊んでたんだ。学校帰りに私の家に寄ることもしばしばだった。2人ともロックン・ロールに興味を持っていたから、それじゃあってことで、彼にいくつかのコードを弾いてみせたりしたんだよ」

1957年の7月6日、15歳になったばかりのポール少年は、セイント・ピーターズ教会のホールで、クォリーメンとして出演していたジョン・レノンと出会います。
「何か弾いてみな」とジョンに言われてポールは "20 Flight Rock" などの曲を弾き、歌いました。ポールがたくさんのコードや正確な歌詞を知っていることに驚いたジョンは、後日クォリーメンにポールを誘います。
この出会いがなければ、ビートルズは誕生していなかったかもしれません。

ジョンと出会った時のことを、サー・ポールはかつてこう語っています。
「あそこで彼(ジョン)の知らなかったコードをいくつか弾いてみせたんだ。まさにイアン・ジェイムズに習ったやつをね。その日はそれで帰ったんだけど、やったぞって気分だったね。いいところを見せられたからね」

ジェイムズ氏は、当時をこう振り返っています。
「その頃にはもうポールは自分のギターを持っていた。私も自分のを持って行った。自分たちもあそこのホールでプレイさせてもらえるって思ってたんだ。でも司教さんに君らはダメだよって言われてしまってね」
「それで私たちは近所のカフェに行った。さっきのことでちょとうんざりしてたから、私はそこでおいとましたんだが、他の連中は後でまたホールに戻って、演奏したんだろうね。というわけで、これがまあ、私がビートルズのメンバーの座にいちばん近づいた瞬間ってことになるかな」

現在のポピュラー・ミュージックの歴史を作ったともいえるこのギターは、保存状態もかなり良く、10万〜15万ポンド(2100万〜3200万円)の値がつくと予想されています。

"Music Legends" と題され、200点以上ものメモラビリアが出品されるこのオークションは、今月28日、ロンドンのアビーロード・スタジオで行われます。主催するのは、エンターテイメントや音楽専門のオークショナー、Cooper Owen です。 (7月14日)

【マイクの写真集】
マイク・マッカートニーが、新しい写真集『 Live8 cool pix 』を発表しました。
昨年夏にロンドンのハイド・パークで行われたチャリティ・コンサート『Live 8』のフォト・ダイアリーになっていて、出演したスターたちの飾らない姿が収められています。
兄のサー・ポール・マッカートニーとコンサートのオーガナイザー、サー・ボブ・ゲルドフのゲストとして招待されたマイクは、多くのオフィシャル・フォトグラファーたちよりも間近でこのビッグ・イヴェントを目撃することになりました。
写真集には、ボノやスティング、マドンナ、ジョージ・マイケルといったミュージシャンたちだけでなく、コフィ・アナン、ブラッド・ピット、ビル・ゲイツ、サー・ピーター・ブレイクといった有名人たちも登場しています。

写真集の序文で、ポールはこう記しています。
「ライヴ8は、たぶんこの10年で最も重要な1日のひとつだった。幸運にもマイクはあの場所にいてくれて、バックステージで起こったハプニングをたくさん捉えてくれたんだ」

29日、この写真集の出版を記念したサイン会が「ワールド・ミュージアム・リヴァプール」で行われました。
マイクはこう話しています。
「これが全部売れたら、僕らは数万ポンドを集めることができる。アフリカや世界の貧困を過去のものにするためにね」

写真集『 Live8 cool pix 』は、限定1500部のみの出版で、収益は「ライヴ・エイド・トラスト」に直接送られます。
リヴァプールでは観光局 08 Place で販売されます。価格は、マイクのサインつきが60ポンド、サインなしが30ポンドです。 (6月30日)

【64歳の日】
今年の「父の日」である18日の日曜日、サー・ポール・マッカートニーが64歳の誕生日を迎えます。
しかし、つい先日の離婚表明で、彼自身が25歳のときに発表した歌 ' When I'm 64 ' のようなハッピーな誕生日とはならないようです。

ビートルズを生んだ「キャヴァーン・クラブ」を所有する Cavern City Tours のダイレクターのひとり Bill Heckle は、ポールの会社MPL同様、彼らもこの日を記念するイヴェントは何も行わないと言っています。
ビルの話です。
「ポールはすごく落ち込んでる。本人が辛い思いをしている時にお祝いするのはそぐわないからね。まあ、65になった時にでも何かやりたいよね」

アルバート・ドックにあるミュージアム Beatles Story では、' When I'm 64 ' のカラオケ大会が行われます。
オペレーション・マネージャーの Louise Collier は、こう話しています。
「カラオケ大会は、土曜日と日曜日の午後2時から3時半に、『ビートルズ・ストーリー』内のキャヴァーン・クラブで行います」
各日の優勝者には、アルバート・ドックのレストラン Pan American での食事券がプレゼントされるそうです。

この週末、「ビートルズ・ストーリー」では、1962年生まれの人は入場無料となるほか、ポールへのバースディ・カードを持参した人の中から抽選で64ポンド分の商品券をプレゼントすることになっています。

また、日曜日にポールの少年時代の家 20 Forthlin Road の見学ツアーに申し込んだファンには、ツアーを運営する National Trust からスペシャル・ギフトが贈られます。
ナショナル・トラストの地域マネージャー Simon Osborne の話です。
「あと、私たちはオールシーズン、64人目のお客さんは無料にしてるんですよ」 (6月18日)

【もっとシックスティーズに】
マシュー・ストリートの「グレープス」は、「ビートルズのパブ」として知られています。
1960年代の初め、「キャヴァーン・クラブ」の斜め向かいというロケーションから、このパブはビートルズをはじめとするマージービートの人気バンドたちで毎日のように賑わいました。
今でも店内には「ビートルズ・シート」が残されていて、ファンたちがひっきりなしに訪れる人気スポットとなっています。

先週、「グレープスはアーティストが運営するギャラリーになり、名前を『ロイヤル・スタンダード』として再オープンする」という新聞報道がありました。
しかし、昨年7月から妻のスーと一緒にこのパブのオーナーを務めるポール・ブリストウ氏は、この報道を真っ向から否定し、反対に60年代のディスプレイを増やして行くと語りました。

39歳のブリストウ氏の話です。
「外のグレープスの看板を新調したところだよ。名前を変えるつもりなんてまったくないって」
「店を引き継いだとき、『変えないように』って念押しされたんだ。僕自身そうしたいとも思ってなかったけど。だからカーペットとカーテンを取り替えたほかは、いくつか家具を修理したくらいかな。でもね、60年代のメモラビリアはもっと増やそうと思ってる」

喜んだこのパブのレギュラーたちから、当時のお宝メモラビリアが続々と集まっています。
ビートルズの初代マネージャー、アラン・ウィリアムズは、ビートルズのハンブルグでの巡業先「カイザーケラー」の契約書のコピーや、1960年の「シルヴァー・ビートルズ」時代にスコットランド巡業で滞在したホテルの領収証などを提供しています。
その他にも、「ビートルズ・マガジン」の初版や、サー・ポール・マッカートニーが醸造して限られた友人や家族だけに配ったビールなどが寄付されたそうです。

ブリストウ氏は続けます。
「ミック・ジャガーのサイン入り写真とか、ジェフ・ハーストのサインが入った1966年のワールド・カップの写真とかもあるよ」
「この場所のヒストリーに、ものすごく愛着がある。だから、ビートルズが座った場所を見にたくさんの人が来てくれるけど、彼らにもっとたくさん当時のものを見せてあげたいと思うんだよね」 (6月15日)

【コードがロゴに】
ビートルズをテーマにした4つ星ホテル「ハード・デイズ・ナイト・ホテル」のロゴ・マークが発表されました。
ホテル名の由来となったビートルズ1964年のヒット曲、"A Hard Day's Night" のオープニング・コードの、ギターのタブ譜をデザインするという、ユニークなものとなっています。

オーナー会社「キャヴァーン・シティ・ツアーズ」のダイレクター、ビル・へックルはこう語っています。
「ビートルズ・ファンっていうのは、何かにつけていろんな違った意味を見つけ出すのが大好きですからね、きっとこのロゴを気に入ってもらえるんじゃないかと思いますよ」
「このコードの見た目って、まさにビートルズのステージでの並び方そのまんまなんですよ。ほら、ジョージとポールが左で、それからちょっと後にリンゴ、いちばん右にジョンになってるでしょ」

「ハード・デイズ・ナイト・ホテル」は、来年秋のオープンに向けて順調に出来上がっています。
マシュー・ストリートを抜けてすぐ、ノース・ジョン・ストリートのコーナーにあるセントラル・ビルディングを改装して作られるこのホテルは、地下1階、地上7階(英国式に言うと地上6階)建てで、110の客室が設けられます。
各客室には、アメリカ人アーティスト、シャノンの手によるビートルズにちなんだ絵が飾られます。110室それぞれに違う絵が飾られ、フロント・ドアの外には、客室の絵のミニチュアが架けられます。地下に飾られるのが「キャヴァーン・クラブ」で演奏するクォリーメンであったり、最上階に飾られるのがアップル・ビルの屋上で演奏する解散間近のビートルズであったりと、ホテルそのものが、ビートルズの歴史を辿るギャラリーのようにデザインされます。

ビル・へックルはこう話しています。
「みんなに感激してもらえると思いますよ。壁紙から何から、いろんなものをビートルズにするつもりですからね」
「それでいて豪華で気品もあるホテルになりますよ。飾られるビートルズの絵だって実に繊細な絵ですからね」
「シャノンは、世界でもっとも素晴らしいビートルズ・アーティストとして有名です。彼女の絵はほんとうに素晴らしい。彼女の作品を展示させてもらえるのは、我々としても光栄なことです」

シャノンはこう話しています。
「この仕事をやってみないかって電話をビル・へックルから受けたとき、『やった!』って思ったわ。私は6歳の時からずうとビートルズの絵を描いてきてるんだもの」
「ビートルズが生まれた街に私の作品が飾られて、それをたくさんのファンが見てくれるなんて、ほんとうに素晴らしく名誉なことだって思う」 (6月9日)

【LIPAからナンバー1】
サー・ポール・マッカートニーが中心となって設立した大学 Liverpool Institute for Performing Arts (LIPA)の卒業生 Sandi Thom のシングル 'I Wish I Was a Punk Rocker (With Flowers in My Hair)' が、全英チャートのナンバー1を獲得しました。

今年創立10周年を迎えたLIPAにとって初の快挙で、いてもたってもいられなかったのか、サー・ポールは、すぐにリヴァプールに飛び、LIPAを訪れました。
現在学んでいる学生たちに、サー・ポールはこう話したそうです。
「無茶苦茶嬉しいよ。サンディが夢を実現する手助けができたんだから」

スコットランド出身で現在24歳のシンガーソング・ライター、サンディは、2003年にLIPAを卒業しました。
在学中は自身のバンド以外にも2つのバンドや2つのゴスペル・コーラスに加入して活動していました。先月に行われたLIPAの音楽フェスティヴァルでは、ヘッドライナーを務めています。
サンディは、学生時代にサー・ポールに指導してもらった時のことを、こう回想しています。
「7人編成のバンドにいたとき、サー・ポールにアドヴァイスをもらったの。『キープ・イット・シンプル』って」
「この言葉にものすごく感激したわ。LIPAではほんとにたくさんのことを教えてもらった。いっぱい感謝してるの」

サクセスしたことで生活が変わったか、という質問には、サンディはこう答えています。
「いつもやってきたことを今もやってるわ。歌を演奏することと、世界を見ること。わたしのやりたいことってそれだけなんだもん」

LIPAの学長、マーク・フェザーストーン=ウィッティも、嬉しそうにこう語っています。
「ファンタスティックなニュースですねえ。まさに快挙でしょう。しかも我々にとってはアメイジングなタイミングですよ。10周年の年に卒業生がチャートのトップを射止めるなんてね」 (6月8日)

【ビートルズの里帰り】
25日、ビートルズがリヴァプールに里帰りしました。
といっても、もちろんホンモノのビートルズではなくて、等身大のロウ人形です。

ロンドンの「マダム・タッソウズ(ロウ人形館)」が所有していたこれらの人形は、ある個人コレクターに買い取られた後、リヴァプールのアルバート・ドックにある「ビートルズ・ストーリー」ミュージアムに寄付されることになったのです。

14時17分ロンドン発のヴァージン・トレイン、ファースト・クラスの席に乗った「1964年のビートルズ」は、ライム・ストリート駅のホームに降り立ったところで、まるで40年前のように多くの報道陣に囲まれました。彼らはひとしきりカメラにポーズを取ってサーヴィスした後、「ビートルズ・ストーリー」に向かいました。ここが、これからの彼らの「家」になるのです。

「ビートルズ・ストーリー」のダイレクター、ジェリー・ゴールドマンはこう話しています。
「ここで預かることになって、とても感激しています。我々一同、このミュージアムで大ヒットを飛ばしてくれると期待してるんですよ」
「ロンドンからリヴァプールに連れてくる間も、結構注目を浴びてましたよ。びっくりして見てる人もいましたから」
「これもまた、ビートルズ・ファンの気前の良さの好例でしょうね。彼らは、自分のメモラビリアを人とシェアして楽しむんですよ。今回寄付してくれた方は、このミュージアムが人形たちの家にいちばん相応しいと言ってくれました。私たちにとっても幸せなことです」

ロウ人形のビートルズたちを運んだ「ヴァージン・トレインズ」も、粋な計らいを見せています。
6月1日から9月30日まで、「ビートルズ・ストーリー」入場時にヴァージン・トレインのチケットを見せれば、入場料の3分の1が割引になるということです。 (5月26日)

【ポールをサポート】
サー・ポール・マッカートニーが、妻のへザーとの共同声明で、別居することになった発表しました。
このことについて尋ねられた弟のマイク・マッカートニーは、ポールの力になるつもりだとコメントしています。
「ポールをサポートして行くつもりだよ、もちろん。たったひとりの兄弟だしね」
「支えになってやれると思うんだ。ちょうど兄貴が僕にしてくれたみたいにね」

マイクは今年初め、16歳のウエイトレスからセクハラで訴えられました。その際、ポールや家族から全面的な信頼とサポートを受けたことに感謝しています。もちろん、法廷ではマイクの無実が証明されました。

また、サー・ポールと共にLIPA( Liverpool Institute for Performing Arts )を設立したマーク・フェザーストーン=ウィッティーは、こう語っています。
「別れることになったっていう発表には、びっくりした。私はポールのことを、根っからのファミリー・マンだと思っている。きっと辛いことだろうね」
「彼はちょくちょくリヴァプールに帰って来てるよ。家族に会ったり、ここ(LIPA)での用事のためにね。リヴァプールにしっかり軸足を置いてるんだ。本当に感心させられるよ、彼のそういうところには」 (5月19日)

【サー・ポール生誕の病院が…】
ポール・マッカートニーが産まれた病院が閉鎖されることになりました。
ライス・レーンにあるウォルトン・ホスピタルは、140年近い歴史を持つ総合病院ですが、NHSの方針により、今年中にファザカリーのセンターに統合されます。
ただし、将来的なヘルスケア・サーヴィスの需要に備えて、建物はそのまま残されることになりそうです。

印象的なクロックタワーで知られるウォルトン・ホスピタルは、最初は貧窮院として1868年の4月15日にオープンしました。
1897年ごろに入所者のための診療所が開設され、1905年には一般市民にも使われるようになりました。
1914年にはX線などの最先端の医療機器が導入され、1935年に正式にホスピタルとなりました。
現在は、年間10万人もの患者に利用されています。

サー・ポール・マッカートニーがウォルトン・ホスピタルで産まれたのは、1942年6月18日です。
母メアリーは、ポールの出産前まで、この病院の産科で看護婦として働いていました。
ポールの弟、マイク・マッギアが1972年に発表したファースト・ソロ・アルバムのフロント・カヴァーには、ウォルトン・ホスピタル時代のメアリーの写真が使われています。まるで修道女のように見えますが、これが当時の一般的な看護婦の制服だったのだそうです。 (4月21日)

【キャヴァーンはどこ?】
観光局が発行する「ヴィジター・ガイド」の2006年度版に、ビートルズを生んだキャヴァーン・クラブやマシュー・ストリートが掲載されておらず、それが議論の的になっています。
年間2000万ポンド(約42億円)もの経済効果をもたらすリヴァプールきっての観光スポットなのですから、無理もありません。
ツアー・オペレーターたちは、ガイドブックを作り直すように求めています。

「ファブ・ツアーズ」を経営するフィリップ・コッペルはこう話しています。
「マシュー・ストリートもキャヴァーン・クラブもマップに載っていないって聞いて、そりゃあびっくりしたさ」
「それってまるで、ロンドンのマップにロンドン塔とかバッキンガム宮殿が載ってないみたいなもんじゃないか」
「あのエリアの総称の『キャヴァーン・クォーター』が載っているんならまだオーケーかもしれないけど、(ショッピング・センターの)キャヴァーン・ウォークスだけじゃあね、そりゃあ不親切ってもんだろう」
「ビートルズ・ファンはみんな、キャヴァーン・クラブはマシュー・ストリートにあるってことを知ってる。だからせめてマシュー・ストリートくらいは載せようよ」

この新しいガイドブックは、すでに20万部印刷され、新しいツーリスト・インフォメーション・センターである「08プレイス」に並べられています。
皮肉なことに、この08プレイスがあるホワイトチャペルは、マシュー・ストリートからほんの十数メートルしか離れていません。

ガイドブックを発行する「マージー・パートナーシップ」は、彼らはビートルズ・ファンのことを無視しているわけではなく、別に「ホーム・オブ・ザ・ビートルズ」という専用マップを用意しているのだと言います。
ダイレクターのマーティン・キングの話です。
「リヴァプールとマージーサイドのヴィジター・ガイドには、ちゃんとビートルズのセクションがありますよ。もちろん、マップにはキャヴァーン・ウォークスもビートルズ・ストーリーも掲載していますよ」
「熱狂的なビートルズ・ファンのためには、新しく『ホーム・オブ・ザ・ビートルズ』というマップを作りましてね、先週から無料で配ってるんです。ツーリスト・インフォメーション・センターとか、市内の12ヶ所のビートルズ・アトラクションに置いております」 (3月11日)

【イエロー・サブマリンになった迷子のクジラ】
今年1月、テムズ河にクジラが迷い込んで大騒ぎになりましたが、50年前のマージー河にもクジラが迷い込んだことがあるそうです。
そしてそのクジラが、ビートルズのヒット曲&映画「イエロー・サブマリン」のインスピレーションになったのではないか、という話です。

新証言を発表したのは、ウールトン出身で現在はデンマークに住む農業ジャーナリストのデイヴィッド・アシュトンです。
デイヴィッドは、幼少時にジョンと仲良しでした。マージー河にクジラが迷い込んだ時も、へイル灯台の近くまで、ジョンとこっそり見に行きました。デイヴィッドはその時のことを、はっきり憶えています。
その時にジョンと描いたクジラの絵を最近発見したデイヴィッドは、ビートルズの「イエロー・サブマリン」のヒントはここにあったに違いないと言っています。

デイヴィッドの話です。
「あのクジラとイエロー・サブマリンには何がしかの関係があるとずっと考えていたんだよ。で、あの絵を見て、やっぱり間違いないと確信した。見ればわかってもらえると思うよ」
「ジョンと私は、よくへイル灯台で遊んだもんだ。クジラが迷い込んだ時も一緒に見に行ったんだよ」
「もう腐りかけていてね、黄色くなっていた。カラスやカモメに食べられていた」
「それで、2人でそれを絵に描いたんだ。母にもらった僕のスケッチブックにね。2人でっていっても、実際にはジョンがほとんどを描いたんだけど」
「母はそのスケッチブックをずっと保管してくれていて、10年くらい前に僕に戻してくれたんだよ。その時は中を見てなかったんだけど、最近整理した時に出てきて、その絵を見つけてもうびっくり。信じられなかったよ」

件のクジラは、1953年の9月にマージー河岸に打ち上げられました。
港湾当局は、そのクジラを救出することが出来ず、窒息で苦しむ様子を見かねて、仕方なく銃殺しました。体長は21フィート(約6.4メートル)で、体重は4トンだったそうです。

デイヴィッドは今、自分の家族のために、この絵にまつわる話を執筆しているところです。もちろん、この絵を手放すつもりはまったくありません。
「この絵はジョンのものだと思ってるよ。私のじゃなくて。売ることはまったく考えてないさ。たぶんものすごい値がつくだろうけどね」
「ジョンと僕は親友だったからね。7歳ぐらいの時からの友達だ。いつも一緒だったんだよ。ユース・クラブとかボーイスカウトとか教会のコーラスとかね。あの絵は僕が12で彼が13の時のものだよ」
「みんな忘れがちだけど、あんなに有名になる前のジョンは、どこにでもいるノーマルな人間だったんだよ」 (3月3日)

【44年前のビートルズ】
初期ビートルズの演奏シーンを収めた8mmフィルムが発見されました。
ハンブルグから帰国し、黒の革ジャン姿で演奏するビートルズ。小さなステージの周りには、すでに金切り声を上げる少女たちの姿も映っています。
このフィルムはある男性のお父さんの持ち物の中から発見され、男性はビートルズのオリジナル・ドラマーのピート・ベストに購入を持ちかけました。
ピートのプロダクション・カンパニー「ベスト・ウィッシズ・プロダクション」はそのフィルムを購入し、早速このビートルズのギグの時期や場所の特定に取り掛かりました。

ベスト・ウィッシズのダイレクター、アラン・ハンフリーズは、こう話しています。
「証拠になりそうなものを調べあげて、なんとかして特定しようとしたんだよ」
「まずピートはまだバンドにいる。マッカートニーはヘフナーのベースで、それからジョージはカントリーマンのギター。あの頃彼が『エコー』の広告を見て買ったものだ。で、これは1962年だろうと」
「さらに、彼らの後ろのカーテンには、ヴァレンタインのハートマークが飾られている。ということは、その年のヴァレンタインの日か、もしくは12日だろうと。ヴァレンタインの前の土曜日だからね」
「だがこの会場を特定できる人間は誰もいなかったんだ。不思議なことにね。アラン・ウィリアムズやザ・マージービーツにも見てもらったけれども、わからなかった」
「最初はこれはサウスポートにあるフローラル・ホールだろうと見当をつけたんだが、ピートと一緒に実際に行ってみて、違うってことがわかった。あそこよりステージはずっと小さい」
「ピートの手帳では、それにいちばん近い日付のところが、トランミアのノース・ロードのセント・ポールズ・プレズビテリアン・チャーチでのギグとなっていたんだ。今はもう存在しないところだ。で、我々は、このフィルムが撮影された会場はたぶんここに間違いないだろうと結論づけたというわけなんだ」

この時期のビートルズには、すでにブライアン・エプスタインがマネージャーとしてついていました。しかしステージでの姿から、ブライアンが彼らの前髪を下ろし、革ジャンを脱がせてスーツを着せるようになる以前の時期だということになります。
ハンフリーズ氏は続けます。
「動くビートルズを映した最初期のフィルムだろうね。これまで知られているものより、8ヶ月か9ヶ月古いはずだ。カラーとしては唯一のフィルムだよ」
「グラナダTVがキャヴァーンで撮った有名なのがあるけど、あれはこの次に古いことになるね。それに白黒だし」

このフィルムには早速テレビ局からアプローチがあり、ドキュメンタリー番組に使用する話し合いが持たれているそうです。

このニュースは、フィルムに収められたビートルズのギグからちょうど44年目となる、今年2月14日のヴァレンタイン・デイに地元紙『リヴァプール・デイリー・ポスト』に掲載されました。 (2月18日)

【ジャックにプラーク】
最初期のビートルズが頻繁に演奏していたことで知られるスレーター・ストリートのパブ The Jacaranda に、またひとつ勲章が増えることになりました。
London School of Economics(ロンドン大学LSE)が発案し、CAMRA(Campaign For Real Ale)のサポートを受けて新しく創設された 'Pubs in Time' に選ばれたのです。
「パブズ・イン・タイム」は、歴史的な役割を果たしたパブを顕彰するもので、ジャカランダは、全国から選ばれた最初の15のパブのうちのひとつとなりました。
他には、60年代のバンド「ザ・キンクス」が最初に演奏した Clissold Arms(ロンドン)や、パンク・バンド「ストラングラーズ」(当時はギルドフォード・ストラングラーズ)がデビューを飾った Star Inn(ギルドフォード)などが選ばれています。

「パブズ・イン・タイム」に任命されたパブには、記念プラークが設置されます。
ジャカランダでは、今月23日にプラークの序幕セレモニーが行われることになりました。
セレモニーには、ビートルズのファースト・マネージャーで当時のジャカランダの経営者だったアラン・ウィリアムズが出席する予定です。

オーガナイザーのひとりで、セレモニーにも出席する予定のサイモン・デイヴィースは、こう話しています。
「このアイデアはね、みんなでLSEの学生バー Three Tuns に座ってしゃべってる時に出てきたんだ。この国のヒストリックなパブが無くなって行くのは嘆かわしいことだし、何か記念イヴェントみたいなのができれば関心も集まるんじゃないだろうかってね」
「国の歴史とか物語とかっていうのは、その国のパブを通して語られるものでもあるんだよね。それをみんなに知ってもらいたいというのも、目的のひとつかな。どのパブもすべからく、それぞれに語られるべき物語を持っている。僕は個人的にそう信じてる」

今年の終わりまでにLSEは、プラークを掲げるパブの数を100にしたいと考えているそうです。
「少なくとも、もう2つか3つはリヴァプールから入って来るだろうね、それは間違いない。この街には歴史的に重要な役割を果たしたパブがほんとにたくさんあるから。このプロジェクトが始まった当初―といってもつい11月のことなんだが―から、この件に関してのリヴァプールの人々の熱心さはすごいよ。Camra の人だけじゃなくて、一般の人たちもとにかくアツいからね」 (2月11日)

【LIPA 10周年】
1月30日、リヴァプール・インスティテュート・フォー・パフォーミング・アーツ(LIPA)の10周年記念式典がフィルハーモニック・ホールで行われ、サー・ポール・マッカートニーが出席しました。
リヴァプール市が主催する『リヴァプール・パフォームズ2006』のスタート・イヴェントでもあったこの式典では、LIPAの学生たちによるパフォーマンスが披露されました。サー・ポールはそれを見守った後、会場をLIPAに移して行われた記者会見にも出席し、学長のマーク・マーク・フェザーズトーン・ウィッティーと創立したLIPAのことを、常に誇りに思っていると語りました。
「(LIPAからはまだビートルズやコールドプレイのようなバンドが出ていないことについて)そういうのは僕らの目的じゃないから。最初から目指してないんだ。もしそうなったらそれはそれでグレイトだけどね」
「コールドプレイとかストーンズとかU2のメンバーになりたいんだったら、それはまた全然別の話になるもんね」
「この学校をスタートさせた時にね、チャリティ・レコードでリヴァプールのクリスチャンズってバンドと一緒になったんだ。彼らに言われちゃったよ。『僕らのやってるようなこと、あなたに教えろっていっても無理でしょう?』ってね。なるほどそうだなって思ったよ。グレイトなバンドってさ、たぶんナチュラルなところから生まれて来るもんなんだよ」
「この頃じゃあそうだな、たとえばほら、テレビ番組とか見ても、3週間ばかしトレーニングしただけですぐスターになっちゃったりするもんね」

「リヴァプールって、僕が生まれた街だからね。それに尽きるな、とにかく役に立ちたい、恩返しがしたいって思うのは」
「このLIPAに来るたびにすんごく誇らしい気持ちになるんだ。この学校にも、この学校から僕が学んだことにも、誇りを持ってる」
「LIPAを開校して以来、パフォーミング・アーツの分野で僕らはたくさんの子供たちを教え、そして世界に送り出してきた。で、今では世界のあちこちで、いろんな人が僕を呼び止めて言うんだ。『うちにはLIPAの生徒がいるんです。みんなグレイトですよ』ってね」
「そんなわけで、リヴァプールは僕にとっての自慢の種みたいなもんなんだよ」

サー・ポールは、リヴァプールが2008年のキャピタル・オブ・カルチャーに選ばれた時のことについても話しています。
「ロンドンで車を運転中にラジオで聞いたんだ。あの時はシビレたねえ。ずっと僕らが待ち望んでたものだからね」
「招致合戦は実に厳しかったよね。で、うちの奥さんはその最後まで争ったニューカッスル出身なんだよね。もう家族は内戦状態だったよ」

来年秋に竣工予定のキングズ・ドック・アリーナのこけら落としで演奏すると言われていることについては、こう答えています。
「まだ何も決めてないんだ。アメリカ・ツアーを終えたばかりだから、しばらくはゆっくりしようと思ってるし」
「だから何も決まってないんだって。そのうち分かるよ。まだまだ先の話だろ」 (2月5日)

【サー・ポール登場!?】
“ Liverpool Performs ”が公式テーマとなっている今年のリヴァプール。
年間を通じて様々なイヴェントが企画されることになっていますが、早くも最初のビッグ・ニュースが飛び込んで来ました。なんと、サー・ポールの登場です!

今月30日、リヴァプール・インスティテュート・フォー・パフォーミング・アーツ(LIPA:ポール・マッカートニーの元母校で、彼が中心となって再建した大学)の10周年記念式典がフィルハーモニック・ホールで行われます。

式では、パフォーミング・アート専門のユニークな大学としてLIPAが歩んだこの10年の歴史を振り返ったり、現役の学生や卒業生によるパフォーマンスが行われます。さらに、ゲストとして招かれる有名アーティストによる記念パフォーマンスも予定されています。

ゲストには、シンガーのジョアン・アーマトレーディングやソングライターのガイ・チャンバース、ミュージシャンでアトミック・キトゥンのプロデューサーとしても有名なアンディ・マクラスキーなどの名前があがっています。
そして、毎年卒業式に出席し、臨時講師を務めるなどしてLIPAをサポートし続けてきたサー・ポールも、ゲストとして出席することになっているようです。

LIPAが主催するこの記念式典ですが、2006年のリヴァプールのテーマである『リヴァプール・パフォームズ』のプログラムのひとつとして開催されます。

リヴァプール・シティ・カウンシルのリーダー、ウォーレン・ブラッドリーはこう話しています。
「今年は、キャピタル・オブ・カルチャーに向けて毎年テーマを設定して4年目です。今年のテーマは、『リヴァプール・パフォームズ』。LIPAの10周年記念とジョイントするイヴェントができるなんて、実に楽しみですね」
「サー・ポール・マッカートニーに来ていただければ、こんなに嬉しいことはありませんよ。これから12ヶ月かけて続くセレブレーションの、ファンタスティックなスタートになりますよね」

現在LIPAでは、1200人以上の生徒が学んでいます。この種の学校としては国内では最大規模であり、また、最も注目されている学校でもあります。
LIPAの開校にあたっては、1580万ポンド(現在のレートで約32億4000万円)の費用がかかりました。このうちの120万ポンド(約2億4600万円)をサー・ポールが負担しています。
パフォーミング・アーツ専門の大学として、LIPAには、最先端のレコーディング・スタジオ、コントロール・ルーム、ダンス・スタジオ、リハーサル・ルームやドレッシング・ルーム、ヴィジュアル・アートやグラフィック・アートのための施設、クラスルーム、リソース・センターなどが完備されています。

LIPAの校長兼CEOのマイク・フェザーストーン=ウィッティーはこう話しています。
「このイヴェントには2つのテーマがあります。まず、私たちや生徒たちがこの10年積み上げてきた歩みをみなさんに見ていただくこと。そして私たち自身も、この学校に来た日から歩んで来た生徒たちの成長を確かめたいのです」
「式に招待する方々は、何も著名人だからという理由で選ぶわけではありません。これまでお世話になった方や、この学校の歴史に名を連ねる方を招待するのです。主役は生徒たちなんですから」 (1月13日)