リヴァプール・ニュース

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ビートルズ

【リンゴの里帰り】
来月12日、リヴァプールの<ヨーロピアン・キャピタル・オブ・カルチャー>の幕開けとなるイヴェント<Liverpool the Musical>への出演が決まっているリンゴ・スターが、地元紙<リヴァプール・エコー>のインタヴューに答えました。

デビュー後間もなくロンドンに移り住んだビートルズに対して、故郷を捨てたという批判の声も当時のリヴァプールにはありました。
リンゴはそれについてこう語っています。
「街を捨てた裏切り者って言われたもんだよ。でも俺たちは仕事をしなきゃならんかっただけでね。それがロンドンだったってだけのことなんだよ」
「今の時代ならリヴァプールだろうがレスターだろうが、どこに住んでても仕事はできるんだがね。でもあの時代はそうじゃなかったから、“俺たちを見捨てた裏切り者”みたいな罵声を浴びることになったんだ」
「でもしこりなんかないよ。俺たちは今でもリヴァプールのみんなに愛されているんだから。俺たちはリヴァプールを貶すようなマネは絶対にしなかったし、いつだってリヴァプール出身だってことを誇りにしていたしね」

キャピタル・オブ・カルチャーのオープニングでリンゴは、数千人のリヴァプールの人々の前で、生まれ故郷をテーマにした新作のお披露目を行うことになっています。
新作アルバムおよびシングルのタイトルは<Liverpool 8>です。リンゴが生まれ育ったリヴァプール8区がそのままタイトルになっています。
「1月に戻るよ。リヴァプールの人たちと一緒に文化の年をお祝いするためにね」
「いいことだよね。キャピタル・オブ・カルチャーのおかげで、リヴァプールのいろんなところにスポットライトが当たることになるからね」
「何度かファミリーのところに顔を出したことはあるよ。もうずいぶん経ってるけど」
「歩きまわったこともあるよ。マドリン・ストリートやアドミラル・グローヴの家やら、いろんな場所に息子を連れて行ったんだ。父ちゃんが生まれ育ったところだぞってね。そしたらどこかのおばちゃんが俺の腕をとって、こう言ったんだ。“あらまあ、ぜんぜん変わってないわね”って」
「俺は言ってやったよ。いや、ぜんぜん変わってるぞ、ここはどこだ? あれはどこに行った?」

新曲<Liverpool 8>の中でリンゴは、トクステス地区での少年時代のことを回想しています。彼がこれまで書いた中で、最も自伝的な歌です。
「タイトルはもう何年も前から俺の頭の中にあったんだけどね。で、一緒に仕事をすることになったデイヴ・スチュアートに相談して、バイオグラフィーみたいな歌にしようってことになったんだ」
「歌詞は全部自分で書いた。だって俺の人生のことだからね。で、コードは全部彼に任せたのさ」
「最初は船乗りになったんだ。スランドウドノに行くセント・テュディノ号っていう船でね。毎朝10時に出て、夜の8時に帰って来る定期便さ」
「でも俺は大海に出たかったんだよ。だって近所の家庭じゃたいてい一家に一人は商船の船乗りになってたからね」
「そういった沿岸船に乗ってても、組合に入ってりゃ大海航路に乗るチャンスももらえるもんでね。そこまではよかったんだが、結局は5週間でクビになってしまった。俺の態度が気に入らないってことでね」
「次に<H Hunt and Sons>っていう工場で働いて、それからロリーと一緒にバトリンズに行った(ハリケーンズの一員としてスケグネスのリゾート施設に長期間出演)」
「この歌は俺のちょっとしたミニ・バイオグラフィーみたいな歌なんだ。それからはご存知のようにハンブルグに行って、後々シェイ・スタジアムでプレイする、と。俺たちはここでストップすることにした。ひとつのピークだからね。これは歌だからどっかで終わらさなきゃならん」
「そりゃ続けられんこともないけどね。だってビートルズが終わった後も俺は生きてるし仕事もしてるんだから」 (12月18日)

【開催決定!】
9日、マシュー・ストリート・フェスティヴァルの開催が正式にアナウンスされました。
1週間前の8月2日、運営するカルチャー・カンパニーによって突然中止が発表されたこのフェスティヴァル。開催のわずか3週間前というタイミングや、シティ・カウンシルのリーダー、ウォーレン・ブラッドリー以下多くの関係者に知らされたのも発表の数時間前だったことから、大きな批判の声が上がっていました。
休暇先から戻ったウォーレン・ブラッドリーは、フェスティヴァルの通常通りの開催を求めて、月曜日に関係者を集めての集中審議に入りました。そしてまる3日間、72時間にもおよぶ審議の結果、アウトドア・ステージの設置は見送りになったものの、パブやクラブなど、40ヶ所以上のインドア会場での開催にこぎつけました。

ウォーレン・ブラッドリーの話です。
「この問題をなんとか解決しようと、公的機関と民間機関が一致団結しました。その精神に私は大きな感動を覚えました」
「ただし、アウトドア・ステージの安全面での問題は、今年に限っては解決が非常に困難でした。個人的にもたいへん残念に思います」
「マシュー・ストリート・フェスティヴァルのスピリットを失わないフェスティヴァルにすること。そして集まった人々に、最低限の安全は保障する。ぎりぎりまでつきつめてのプランになりました」
「確かにこれは後退です。受け入れがたい後退です。ですが私は、みなさんにぜひ来てもらいたい。そしてこのウィークエンドを通じて、リヴァプールの800歳のバースディ・セレブレーションを楽しんでいただきたい」
「そうすることで、リヴァプールの街の素晴らしさを証明したいんです。失敗のまま終わるわけには行きませんからね」 (8月11日)

【批判が続々】
マシュー・ストリート・フェスティヴァルの中止に、各方面から批判の声が上がっています。

ビートルズの初代マネージャー、アラン・ウィリアムズはこう話しています。
「信じられん。気が狂ったとしか思えんな」
「このUKで最大のフェスティヴァルだぞ。ヨーロッパやその向こうからみんなやって来るんだぞ」

ラジオDJでエンターテイナーのピート・プライスはこう話しています。
「まったくもって信じられない話だ。今までの年は安全面の問題はなかったのか? 開催まで3週間の時点で、どうやってキャンセルするんだ? キャピタル・オブ・カルチャーだって今までさんざん言って来たことは何だったんだ?」
「俺たちは世界で最悪の夏を迎えることになるね。みんなマシュー・ストリート・フェスティヴァルを楽しみにしているっていうのにね。世界中から人々が集まって来る、本当に素晴らしいイヴェントなのにね」
「馬鹿じゃないのって言われるよ、俺たち」

毎年同じ時期に開催される大規模なダンス・フェスティヴァル「クリームフィールド」のボス、ジェイムズ・バートンはこう話しています。
「安全面は第一に考慮されなければならないし、不測の事態が起こらないように万全の対策を練らないといけない。それは分かる。しかしそのための時間はたくさんあった」
「道路工事は今始まったわけじゃない。ピア・ヘッドが使えないってことは、少なくとも18ヶ月も前に彼らは知っていたはずだ」
「本当に恥ずべきことだよ。このカウンシルはまたやってくれたね。彼らがこれまでリヴァプールのカルチャー・アクティヴィティに果たしてきた功績は認めるけれどもね」
「今からではどうすることもできない海外からの何万人ものヴィジターのことを考慮して、その上での決断だといいんだけどね」

マシュー・ストリートのパブ「ホワイト・スター」の主人アルフィー・バクストンはこう話しています。
「本当のところは、安全面での問題じゃないんじゃないか。カウンシルもカルチャー・カンパニーも金がないんだよ」
「大みそかの花火を、風が強いからって理由で中止したのもこいつらだ。サウスポートやマンチェスターや、リヴァプール以外の街はどこも中止しなかったっていうのに」
「私らにはオーストラリアやノルウェイからフェスティヴァルにやって来る友人もいるがね。ノルウェイの連中は私らより早くキャンセルのことを知ってたよ。リヴァプールは物笑いのタネにされているよ」

奥さんのジャッキー・バクストンはもっと辛辣です。
「カルチャーの都市だって? こんなシンプルなストリート・フェスティヴァルのひとつもオーガナイズできないのに?」
「こんなにぎりぎりになって投げ出すなんて、むちゃくちゃよね。恥ずかしいったらありゃしないわ。この決定はみんなに影響するでしょうね。たくさんの人に来てほしいんだけど」

同じくマシュー・ストリートにあるアイリッシュ・パブ「フラナガンズ・アップル」の主人、ナンシー・ムーニーはこう話しています。
「みんな怒ってるわ。私たち、フェスティヴァルがスタートしたときからここにいるのよ。そもそもは私たちバーやパブがこのフェスティヴァルをスタートさせたんじゃないの」
「こんなにポピュラーになって、リヴァプールにとってもすごくよかったって思ってるのに、私たちから取り上げるっていうのね。冗談じゃないわよ。これはマシュー・ストリート・フェスティヴァルなんでしょう? ピア・ヘッド・フェスティヴァルじゃないでしょう?」

ホテル「クラウン・プラザ」のマネージャー、ブライアン・コナーはこう話しています。
「たいへん残念です。しかしカウンシルが安全面を考慮して中止せざるを得なかったのなら、私どもとしてはこの決定を尊重しなければなりません」
「今年に限って言えば、私どもはそれほどの影響は受けないと確信しております。ただ、今年来られた方々が楽しく過ごされればまた来年も来てくださるでしょうが、おそらくそいういうことにはならないかもしれません」
「そうなりますと、元に戻すには何年もかかるかもしれませんね」

「インターナショナル・ビートル・ウィーク」を主催する「キャヴァーン・シティ・ツアーズ」のダイレクターで、この「マシュー・ストリート・フェスティヴァル」の創設者でもあるビル・ヘックルは、まったく寝耳に水の話だったと語っています。
「この街は惨事とか事故には特に敏感だから、安全が保障されないなんて言われると、無視するわけにはいかないんだろう」
「私がこのことを聞いたのは今朝(8月2日)の8時半だ。今もショックから立ち直れていない」
「どうすればいいか、それ明白だと私は思っている。まず大事なことを思い出してほしい。バンク・ホリディの週末のお祭りが全部なくなるわけじゃない。ビートル・ウィークの開催にも影響しない」
「例年と違うのは、野外のライヴ・ステージがないってことだけだ。これはスタートしたときのマシュー・ストリート・フェスティヴァルのスタイルと同じだ。10年前に労働党が野外ステージを作るお金がなかった時もあったが、我々の手でやって成功させた。だから今回も成功させようと思っている」

批判の矢面に立たされ、解任を求める声もあがっている「カルチャー・カンパニー」のチーフ・エグゼクティヴ、ジェイソン・ハーボロウはこう話しています。
「イヴェントをキャンセルする決定は適切であると考えます。今年マシュー・ストリート・フェスティヴァルを開催できないのは大きな痛手なのは確かですが、しかし、少なくとも人々を危険にさらすことにはなりません」
「これは『ノー・ウィン』のシチュエーションなのです。もし開催に踏み切れば惨事が起こり、我々はそれで非難を受けることになるでしょう」
「今思えば、この決定にもっと早く到達すればもう少し批判も少なかったかもしれません。しかし決断が遅くなったのは、我々がなんとか解決策を見出そうと一生懸命努力して来たからなのです」
「私に辞めろという人々には、このことについてちゃんと説明して行きます。しかし私の同僚たちは、私を全面的に支持してくれていますよ」
「他の誰かがこのイヴェントをオーガナイズしていたとしても、同じことになっていたはずです。カルチャー・カンパニーは来年に向けて多くの仕事を抱えています。もし私や私のチームの何人かが今辞めることになれば、2008年は悲惨なことになりますよ」 (8月5日)

【マシュー・ストリート・フェスティヴァルが中止に!?】
8月2日、今年の「マシュー・ストリート・フェスティヴァル」が中止になることが明らかになりました。中止の理由は、安全面の問題ということです。
毎年8月最後の月曜日「バンク・ホリディ」に行われ、30万人以上を動員するこのフェスティヴァルは、リヴァプール名物の観光イヴェントとなっています。
しかし現在リヴァプールのシティ・センターは、多くのエリアが再開発工事中で、特に、3万人以上を吸収できるピア・ヘッドを始が使えない現状では、数十万人もの群衆を受け入れるにはリスクが大きすぎるという判断だったようです。

フェスティヴァルを運営する公的機関「カルチャー・カンパニー」のチーフ・エグゼクティヴ、ジェイソン・ハーボロウはこう説明しています。
「マシュー・ストリート・フェスティヴァルは大きくなりすぎた。それが命取りになったと言えるだろう」
「フェスティヴァルが集める人口が巨大になっていること、それとピア・ヘッドが使えないこと。それが我々にとっての大きな問題となった。そして残念ながら、この問題を克服することができなかったということだ」
「なんとかこのフェスティヴァルをシティ・センターで開催できるよう、我々は懸命に努力してきた。しかし数ヶ月を要して仕上げた開催計画も、満足の行くものにはならなかった」
「最終的に我々は、全国的なセイフティ・エキスパートであるカピータ・シモンズ社に調査を依頼した。彼らがこの困難な問題の解決策を見つけ出してくれるのを期待していた。しかし残念ながら、やはり大きなリスクは避けられないというのが彼らの結論だった」

マージーサイド警察のヘレン・キング警部補はこう話しています。
「彼らが下したキャンセルの決定には、全面的に尊重します。パブリック・セイフティは最優先されるべきですから」

「マージー・パートナーシップ」のツーリズム・ダイレクター、マーティン・キングはこう話しています。
「観光部門としてはものすごく残念。うちのメンバーでこのイヴェントにかかわっている人間も多いし」
「すでに旅行の準備をしている何千人ものヴィジターにとってもショックな話だろうね」

地元紙「リヴァプール・エコー」のアート・エディター、ジョー・ライリーはこう書いています。
「考えられる限りで最高に派手なオウン・ゴールをやらかしてくれた」
「国際的なトレード・マークになっているこの街のミュージック・フェスティヴァルが中止になった。最後の最後の段階で」
「何十万人ものツーリストの楽しみが台無しになった」
「リヴァプールの経済は何百万ポンドもの損失」
「いちばん最悪なのは、リヴァプールのプライドが前代未聞のやり方でずたずたにされたこと。しかもよりによってこの800年のバースディ・イヤーに」
「シティ・カウンシルと、その子犬であるカルチャー・カンパニーが、誰が責任を取るかでもめているのは見苦しい。洞窟のこうもりよりも目が見えない彼ら全員が責任を負うべきである」
「ファンにとって、今年は特別な年である。ジョンとポールが出会って50年、キャヴァーン・クラブが開業して50年、ブライアン・エプスタインの死去から40年、サージェント・ペパーがリリースされて40年」
「しかしそれらは今、能なしどもによって台無しにされてしまった」
「誰が見ても悲劇だが、もしそうでないとすれば、何かの賞を獲るほどの茶番と言えるだろう」 (8月4日)

【もっと大きく】
アルバート・ドックの「ビートルズ・ストーリー」が、来年の「ヨーロピアン・キャピタル・オブ・カルチャー」に向けて、倍以上のサイズに拡大されることになりました。
1990年にオープンし、数々のツーリズム・アワードを受賞するなど、マージーサイドでも有数のツーリスト・アトラクションとなったこのビートルズ・ミュージアムは、ここ数年でさらに人気を伸ばしています。2006年には20万を超えるヴィジターを記録し、これは前年比で17%以上の増加となりました。

今回の増床により、これまであまり公開されていなかった貴重なコレクションの数々が、脚光を浴びることになりそうです。
新しいスペースには、特別展示用のコーナーが作られるほか、これまでリクエストの多かったジョージとリンゴのソロ・キャリアにスポットをあてたコーナーも作られる予定です。すでにあるジョンとポールのコーナーも拡大し、展示コレクションの数を増やすということです。
そのほかにも、子供のためのラーニング・センターやカフェ&リラクゼーション・エリアの設置が予定されています。

ビートルズ・ストーリーのスポークスマン、ジェイミー・ボウマンはこう話しています。
「新しいエキシビション・スペースをどうするか、もうちょっと煮詰めないといけないんですよ。どれも捨てるのが惜しいアイデアばっかりでね、困ってるくらいです」
「特設コーナーができるのはほんとに大きいですよ。定期的にコレクションを入れ替えることができるわけですからね。新しい物が来るたびに、そのテーマでスペシャル・エキシビションを催すことが可能になるんです」
「建て増しじゃあないんです。建物自体はそのままです。あくまでのもベースメントのエリアを有効に使うということですよ」 (7月15日)

【ジョンとポールの50周年】
7月6日は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが初めて出会った日からちょうど50年です。
運命の出会いの場所となったウールトンのSt. ピーターズ・チャーチでは、6日から3日間にわたって特別イヴェントが開催されます。最終日の日曜日には、「ウールトン・ミュージック・フェスティヴァル」と題された音楽フェスティヴァルが予定されています。

50年前のこの日、15歳になったばかりのポール・マッカートニーは、友人のアイヴァン・ヴォーンに誘われて、この教会で行われたガーデン・パーティーにやって来ました。
アイヴァンは、スキッフル・バンド「クォリー・メン」のステージを見せたいと思ってポールを誘ったのです。アイヴァンとポールは学校の同級生で、クォリー・メンのリーダーのジョンとアイヴァンは幼いころからの友だちでした。
ポールはまず、午後4時15分に教会の裏庭で始まったクォリー・メンのステージを観ました。そしてその後、教会ホールでのダンス・パーティーで演奏するため準備をしているクォリー・メンを訪ねます。ポピュラー・ミュージック史上最高のパートナー、レノン&マッカートニーは、このとき初めて出会ったのです。

50周年記念の特別イヴェントでは、現在も活動を続けるクォリー・メンが演奏をすることになっています。
リーダーのロッド・デイヴィスは、地元紙「リヴァプール・エコー」のインタヴューにこう答えています。
「ジョンがポールと出会って、我々の音楽はがらっと変わることになったんだよ」
「たぶんあの時が、私がクォリー・メンでプレイしたほとんど最後だと思う。ポールに追い出されたんだろうって言う人もいるけどね、はは」
「真面目な話、私は勉強を続けるために大学へ行きたかったんだよ。それが理由さ。ジョンとポールはあの晩に会ったけど、2人が一緒のステージに立つことは10月までなかったんだからね」
「みんな知ってるとおり、ちょうど音楽のトレンドも変わる頃だった。スキッフルからロックンロールにね」

日曜学校からのジョンの友だちで、クォリー・バンク・スクールの同級生でもあるロッドは続けます。
「あの日、何かが起きているってことに気がついてた人間なんて誰もいないよね」
「ロンドン近郊の自宅の壁に、あの日に撮られた写真を飾っているんだ。大きく引き伸ばしたやつをね。誰かが家を訪ねて来るたびに、その写真について話すんだよ」

その写真とは、ジョンを中心にしたクォリー・メンが、St. ピーターズ・チャーチの裏庭のステージで演奏している有名なショットです。
写真を撮ったのは、ロッドの友人で同じクォリー・バンク・スクールのクラスメートだったジェフ・ラインドでした。
現在ダブリンに住むジェフは、リヴァプール・エコーのインタヴューにこう答えています。
「あの日は自分のカメラを持って行ったんだよ。写真を撮ってあげようと思ってね。バンドがステージに上がったのを見て、1枚だけ撮ったんだ」
「その後でジョンが私のところにやって来た。『俺のバンドの写真撮ってたよな』って訊かれたよ」
「で、私は『イエー』と答えたんだが、それっきりだよ、私たちがその写真について話したのは」
「ずっと後になってからだけど、ヨーコ・オノが、ジョンの写真の中でもあの写真が特にお気に入りだって言ってくれたよね」
「当時の多くの人々と同じで、私は1本のフィルムにいろんな題材を詰め込んでいた。後でネガを切り取るんだ。このケースでは、2.25インチ(約3.175cm)四方だった」
「で、そのまま引き出しに放り込んで、それきり忘れてたんだ」

それから7年も経った1964年になって、ジェフはこのネガを発見しました。そして、リヴァプール・エコーの「ノスタルジー・ページ」に送りました。
フォトグラファー兼アーティストとして働いてきたジェフは、今回の記念イヴェントに参加して、彼が撮影した歴史的写真のプリントにサインすることになっています。

ジェフは続けます。
「素晴らしい里帰りになるだろうね。ファンの人たちと話せるのも含めてね」
「50年代のカメラを持って行くつもりだ。eベイのオークションでやっとこさ手に入れたものだよ」
「またクォリー・メンを撮影するのもいいよね。そこにジョンがいないのは寂しいけどね」

ロッド・デイヴィスは、クォリー・メン脱退後、レノンとマッカートニーの2人に別々の場所で会ったことがあると言います。
「ジョンには1962年にオーウェン・オーウェン(訳注:クレイトン・スクエアにあった百貨店)の前でばったり会ったんだ。ドラムを演奏できないかって訊かれたよ。ハンブルグに行くことになったからって」
「無理だよって私は答えて、でまあ、ああいうことになった、と。もし私が受けてたら全然違う展開になってたかもね」

ポールとの再会は、もっとずっと後のことでした。
「今ウインドサーフィンをやってるんだけど、2,3年前にサウス・コーストに行ってね。その時にある人が僕をポールに紹介してくれたんだよ。ポールはそのビーチにバンガローを持ってて、ちょうど犬を散歩させてるところだった」
「その人がポールに僕のことを話すと、彼は『おお、クォリー・メン…。僕が君をバンドから追い出したんだっけ?』って言って、いたずらっぽく笑った。それから我々は少し話して、彼は散歩に戻った」
「でもよかったよ。これで俺の後釜はポール・マッカートニーだぜって堂々と自慢できるかな」

「今あの写真を見るとね、そこに写っているみんなのことを考えちゃうね。あれからどんな人生を送ったんだろうって」
「あの写真は、私をあのスペシャルな夏の日に連れ戻してくれるんだ。50年前のあの日にね」 (7月7日)

【リンゴのスポーツセンター】
リンゴ・スターが、今年じゅうにディングルの母校を訪ねることを約束しました。
リンゴの母校「ディングル・ヴェイル・セカンダリー・モダン」は、現在「ショアフィールズ・テクノロジー・カレッジ」になっています。
そして先週土曜日、この学校に、80万ポンド(約2億円)をかけたスポーツセンターがオープンしました。
このスポーツセンターは、プロジェクトの協力者であるリンゴにちなんで、「スター・フィールズ・コミュニティ・スポーツ」と名付けられました。

カレッジの校長、ジョン・チャーノックはこう話しています。
「私たちは、このファンタスティックな施設の完成をたいへん喜んでいます。うちの生徒だけではなく、コミュニティ全体にとって大きなベネフィットになるでしょう。このディングル地区の再開発にも、重要な役割を果たすと思います」
「うちの生徒たちを誇りに思いますよ。この地域にとって何が必要なのか、何をしたらいいのか、みんな真剣に考えて協力してくれたんです。もちろん、リンゴが近いうちにここを訪問したいと言ってくれていることには、全員が大喜びしていますよ」

「スター・フィールズ」には、フルサイズのフットボール・ピッチや、全天候型のテニス、ネットボール、そしてバスケットボールのコートが整備されています。

10歳の生徒、ジョーダン・ヒューイット君はこう言っています。
「このスター・フィールドのプロジェクトは生徒たちが主導して進めたものなんだよ。すごく自慢に思ってる。僕らがやってることにリンゴ・スターが興味を持ってくれて、問したいって言ってくれてることも、僕らの誇りだよね、ほんとうに」
「僕ら、この地域の人たちにもここを利用してほしいんだ。できるだけたくさん来てほしいなあ。だってコミュニティ全体のためにつくったものなんだから」

「スター・フィールズ」は、学期中は毎日オープンします。
平日は午後5時から9時まで、週末は午前10時から午後6時のオープンとなります。

リヴァプール・シティ・カウンシルのコリン・エルドリッジ議員はこう話しています。
「スター・フィールズのファシリティは何もかもファンタスティックですね。学校だけじゃなくて地域のコミュニティにとって、計り知れない財産になるでしょう。すべての年代の人々が、ここでスポーツを楽しんだり、体を鍛えたりして、アクティヴな生活を送ることができるんですからね」 (6月11日)

【ピートからのメッセージ】
デビュー直前に解雇された元ビートルズのドラマー、ピート・ベストが、サー・ポール・マッカートニーと仲直りしたいと全国紙に語りました。

65歳のピートは、ビートルズを首になった日以来、サー・ポールとは一度も話したことがないそうです。
ピートに代えてリンゴ・スターをドラマーに迎えたビートルズは、デビュー後またたく間にスターへの階段を駆け上り、ポピュラー音楽史上最大の成功を収めるバンドになりました。
一方のピートは、自分のバンドを結成してしばらく音楽活動を続けるもあまりぱっとせず、ヴァンに乗ってパンを配達したり、様々な仕事をして生計を立てなければなりませんでした。

しかしピートは、ビートルズを恨む気持ちはまったくないと言います。
「だんだん若くなるってわけじゃないからね。それなりに年をとって分別もある。今会って話をしても、お互いをけなし合うなんてことにはならないさ」
「神様だって喜んで祝福してくれるさ。なんたって40年以上も前のことなんだから」

ピートがビートルズに加わったのは1960年。ビートルズがハンブルグへの巡業に出発する直前のことでした。
ハンブルグのインドラやカイザーケラー、スター・クラブといったライヴハウスでの過酷な修行はビートルズの演奏技術を格段に進歩させました。そしてブライアン・エプスタインという唯一無二のマネージャーを得たグループは、EMI傘下のパーロフォン・レーベルとの契約にこぎつけます。しかしピートは、パーロフォンのオーディションの後でエプスタインから首を宣告されてしまいました。

解雇された理由について、ピート自身はちゃんとした説明は一切なかったと言っています。
そのために、ありとあらゆる憶測が流れることになりました。
曰く、ピートには才能がなかったから。曰く、ヘアスタイルがバンドにフィットしていなかったから。曰く、あまりにも人気が集中することにレノンが我慢できなかったから。曰く、ブライアンの立て替え払いを断ったから。曰く、信頼のおける人間ではなかったから…。
これらの噂は、すべてピート自身により、長年にわたって否定されてきました。

ピートは続けます。
「あんな経験をすれば、根に持ったり、ひねくれてしまう人もいるだろう。だが私はそうではないよ。自分の人生はすごく幸運だと感じている」
「ビートルズが耐えなければならなかった激務やストレスは、神様にしかわからないだろう。それに、私がビートルズを追い出されたときには、その後あんなことが起きるなんて誰にもわからなかったんだし」
「あの頃みんなで『エルヴィスよりビッグ』になるぞって何かにつけて言ってたのは確かだよ。でも本当にそうなるなんて私は信じてなかったな。他の連中もそうだったと思うけど」

脱退から30年以上が経った1995年、ピートがビートルズとして演奏したナンバーが公式にリリースされました。
『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に、パーロフォンのオーディションで演奏した<ラヴ・ミー・ドゥ>と<べサメ・ムーチョ>が収録されたのです。
ピートには、印税としておよそ100万ポンド(約2億4000万円)が支払われたと言われています。

ピートは今もドラム・スティックを握っています。
自身の<ピート・ベスト・バンド>を率いて、マイペースな演奏活動を続けています。 (4月22日)

【キャヴァーンで歓迎】
チャンピオンズ・リーグの試合のためにリヴァプール入りしたFCバルセロナの役員たちが、マシュー・ストリートのキャヴァーン・クラブに招待されました。
バルサのジョアン・ラポルタ会長はもちろん、350人のサポーターも一緒にリヴァプール・スタイルのパーティーを楽しみました。

当初の予定では試合当日の6日午後に行われることになっていたそうです。しかし、バルサ側の希望で、急遽前夜にスケジュールを変更してのパーティーになりました。

キャヴァーンのダイレクター、ビル・へックルはこう話しています。
「本当は今日(6日)の予定だったんだよ。何もかも準備していたんだけど、昨日向こうから電話がかかってきたんだ。都合がつかないから今からにしてほしいって」
「そりゃ無理だって最初は思ったよ。だってクラブはもう閉めるところだったし、スタッフもいない。でもとにかくあちこち電話をかけて、なんとかみんなに1日早く来てもらうようにしたんだ。もちろんバンドのスケジュールも調整した。で、ファンタスティックなイヴェントになったってわけ」
「みんな予定を変更してよく集まってくれたと思う。バンドのマージー・ビートルズも含めてね。チームワークの勝利という感じかな。嬉しかったよ。みんなが協力してくれてほんとうに助かった」

歓迎パーティーのアイデアは、ビル自身が思いついたものでした。バルサのラポルタ会長がビートルズの大ファンということを、新聞で読んで知ったからです。
ラポルタ会長は、組み合わせ抽選でリヴァプールと対戦することが決まると、「ずっとキャヴァーン・クラブを訪ねてみたいと思っていたからとても嬉しい」とコメントしていました。

ビルは続けます。
「それで我々は彼らにコンタクトをとって、招待したんだよ。バルサファンにも伝わったんだね、会長が来るってことが。で、ものすごい団体さんになってやって来たってわけ」 (3月11日)

【キャヴァーン50歳!】
1月16日、キャヴァーン・クラブが50歳の誕生日を迎えました。
クラブの内部では、インヴィテーション・オンリーのVIPパーティーが、13時間にわたって開催されました。
ちょうど50年前のオープン初日、最初にキャヴァーンのステージに立って演奏したバンド、マージーシッピー・ジャズ・バンドが、この日も再びトップバッターを務めました。
その他、30以上のバンドが全国から集められ、お祝いパーティーを盛り上げました。

マシュー・ストリートでは、オリジナルのキャヴァーン・クラブのドアがあった場所が初めて公表されました。
新しいディスプレイが設置され、ジョン・レノンの妹ジュリア・ベアードを招いて除幕式が行われました。
ディスプレイには、1960年ごろのエントランスの大きな写真の横に、詳しい説明書きが添えられています。

キャヴァーンのダイレクター、デイヴ・ジョーンズはこう話しています。
「オリジナルのキャヴァーンのエントランスがどこにあったかとか、それがどんなだったか、今のキャヴァーンとの関係やら、なんだって一目瞭然になったよね」

同じくキャヴァーンのダイレクター、ビル・へックルはこう話しています。
「歴代のオーナーたちより倍も長くキャヴァーンを所有していることについては、たいへん光栄に思っていますよ」
「ツーリストをひっ捕まえるところじゃなくて、ここはリアルで、ライヴで、ダーティーで、スメリーなクラブです。これまでずっとそうだったようにね」
「地域の、全国の、あるいは全世界のタレントたちに、どんどんここに演奏しに来てもらいたいと思ってます。マジックのような経験になるはずですよ」
「ビートルズには本当に感謝しています。彼らがいなかったら、キャヴァーンはとっくの昔にゴミ箱に埋もれてますよ」
「リヴァプールについても、とても、とても誇りに思います。この街をばんばんPRして行きますよ、全世界にね」

ジュリアはこう話しています。
「ジョンが生きてたら、今日ここで演奏してたかもしれないわね」
「ジョンはよく言ってたわ。俺たちはキャヴァーンが大好きだったって。まさに理想的な場所だったって」
「2008年までにリヴァプールでいろんなイヴェントが打ち上げられるでしょうけど、このキャヴァーンのバースデイって、ちょうどその発射台みたいなものかしら」
「キャヴァーンって、特別なクラブなのよ。その時代その時代の精神みたいなものをしっかりと掴んできてる。しかも立ち止まることがない。今も精力的に新しい音楽をホストしてるものね。これだけ前へ前へと進んでるんだから、キャヴァーンと張り合えるようなところなんてないと思うわ」
「私がキャヴァーンに初めて行ったのは、ティーンエイジャーの頃だった。ファンタスティックだったわ。汗が玉になって壁を伝ってた。今でもそうなんだけど」
「ビートルズが演奏してるところは見たことがないの。見たかったんだけど。きっとジョンも喜んでくれたと思うし。でも最初の頃はジャズを演らないからってお客さんに文句を言われてたのよね」 (1月20日)

【キャヴァーン50周年!】
1月16日火曜日、ビートルズを生み、世界を席巻した「マージービート」のメッカとしても知られるキャヴァーン・クラブが、50周年を迎えます。
当日に記念パーティーが行われるほか、今年1年を通じて様々なサプライズ・イヴェントが企画されています。
また、DVDや本、TVドキュメンタリー、そしてこの50年にクラブに出演した有名バンドの演奏を集めたコンピレーション・アルバムのリリースも予定されています。

クラブのオーナーであるキャヴァーン・シティ・ツアーズのダイレクター、ビル・へックルはこう話しています。
「5月にすごいギグを企画してるんだが、今ちょうどそれに出てくれる超ビッグネームたちと交渉してるところなんだ。それ以上詳しいことは言えないけどね、実現しなかったら困るから」

16日のパーティーは特別に招待されたゲストしか入場できないもので、オープン・バーと30組以上のバンドによる演奏を13時間も楽しむことができます。
ビルは、「パーティーにサー・ポール・マッカートニーが出席するのでは」という噂を否定しています。
「マッカは招待はされてるよ。でも今の彼のパーソナル・ライフで起きてることを考えれば、出席についてはまったくのノー・チャンスだね」
「40周年のパーティーでは、オリジナルのクォリーメン全員に――もちろんジョン・レノンは除いてということだけど――揃ってもらうことができたんだ。同じ部屋に一同に会するのは40年ぶりだったんだよ。で、何杯か飲んだ後、彼らはステージに上がって演奏した。そしてそれから10年、彼らはそれを続けている」

16日のパーティーの日、クラブの外のマシュー・ストリートでは、熱心なビートルズ・ファンの間で長年にわたってミステリーとされていたことが、ついに解明されることになっています。
地下にあったキャヴァーン・クラブへと降りる18段の階段。その階段の入り口があった正確な場所は、クラブが1973年に取り壊されて以来、誰にもわからなくなっていたのです。
しかし今回、キャヴァーンのDJを務めた故ボブ・ウーラーが遺したプライヴェート・コレクションの中の写真を分析することで、正確な場所をつきとめることができたのだそうです。
「それがどこかってことは、今披露することもできるんだが、それじゃサプライズじゃなくなってしまう。当日のお楽しみに残しておこうじゃないか」とビルは言います。

マシュー・ストリート10番地は、当然ながら、最初から有名なアドレスだったわけではありません。
卵のパッキング・ステーションであったり、ワインやスピリッツの保管所であったり、戦争中は空襲時に避難するシェルターとしても使われました。
しかし1957年の1月16日、「キャヴァーン・クラブ」としてオープンしたこの日に、世界的に有名なスポットとなるべく第一歩を踏み出したのです。
オーナーは地元の医者の息子、アラン・スタイナーでした。彼は、パリの有名ナイトクラブ "Le Cavais Francais" のスカウス・ヴァージョンにしたいと考え、「キャヴァーン」という名前をつけました。最初の晩に演奏したのはマージーシッピー・ジャズ・バンドで、600人しか入れないこの狭いクラブに、1000人以上の群集が押し寄せました。

「ジャズ・オンリー」というクラブのポリシーは、スキッフルやロックンロールの爆発的な流行により、間もなく形骸化して行きました。
実際、若きジョン・レノン率いるスキッフル・バンド「ザ・クォリーメン」が初めて栄えあるキャヴァーンのステージを踏んだのは、同じ年の8月7日のことでした。
ビートルズが初めてキャヴァーンに登場したのは、1961年2月21日。わずか5ポンドのギャラでした。以後、およそ1年半の間に合計274回演奏しています。最後となった1963年8月3日のステージのギャラは、300ポンドでした。

ビートルズゆかりの地のガイドブック“The Complete Liverpool Beatles Guide”の著者、ロン・ジョーンズも、記念パーティーに招待されています。
彼が初めてキャヴァーンに足を踏み入れたのは19歳の時でした。以来彼はイーヴニング・セッションの常連となりますが、シティ・カウンシルの職員だったために、伝説のランチタイム・セッションはほとんど観ることができませんでした。
ロンの一番のお気に入りはレモ・フォーだったそうです。レモ・フォーのリード・ギタリスト、コリン・マンレイはジョージ・ハリスンが憧れるギタリストでした。それはコリンが、チェット・アトキンスのようにギターを演奏することができたからでした。

ロン・ジョーンズはこう話しています。
「ビートルズだけが人気があったわけじゃないからね。レモ・フォー、ビッグ・スリー、スウィンギン・ブルージーンズ、ジェリー・アンド・ザ・ペースメーカーズ……どれもみんなものすごく人気があった」
「あそこがどんなところだったかってことは、今の人には想像できないだろうね。あのコールタールと汗の混じった臭いと、たばこの煙。あの時代はみんなが煙草を吸ってたからね。そしてあの暗さと湿っぽさ。でもあそこにはバンドと音楽が生み出すエキサイトメントがあった。それがすべてだったんだよ。あの場所にいた僕らには、何かとんでもないことが起きているっていう実感はなかったけどね」
「それにしても、わずかな入場料でビートルズを観ることができたんだからね。数インチの近さで観ることだってできた。曲と曲の間に、やあやあって挨拶したりね」

ビートルズとマージービートが爆発的な人気となったことで、キャヴァーンは世界的な注目を浴びるようになりました。
レイディオ・ルクセンブルグでは、“Sunday Night at The Cavern”というレギュラー番組を持つほどでした。
しかし60年代半ば、オーナーのレイ・マクフォールが破産してしまいます。
クラブは一時閉鎖されたものの、再建に向けての運動が展開された結果、1966年1月23日、リヴァプール出身の首相ハロルド・ウィルソンが出席して再オープンしました。
ところが7年後の1973年、このクラブの値打ちにもビートルズにも無関心な市の役人たちによって、キャヴァーンはに強制的に閉鎖されてしまいます。シティ・カウンシルは、この場所に地下鉄の排気口を通すことを決定したのです。そして、ブルドーザーがやってきました。
それから10年余が過ぎた1984年、キャヴァーン・クラブは、同じ場所に新しく作られたショッピング・ビル「キャヴァーン・ウォークス」の地下に、オリジナルのレンガを使って再建されました。

ロンは、リヴァプール市がオリジナル・キャヴァーンを消滅させてしまったことに対しても、一定の理解を示しています。
「今でもみんながあれは悲劇だって言う。世界一のロックンロール・クラブをつぶすとはナニゴトかってね。確かに、今の時代じゃ絶対に許されないだろう。明らかな愚行だ。今の感覚ではね。だけどあの時代のリヴァプールってのは観光都市ではなかったんだよ。だから再建されたことを良しとしよう。何もないよりはずっといいさ」 (1月14日)