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BEA-MAIL 『フロムUK』 バックナンバー・ライブラリー

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フロム・ビー発行のメールマガジンBEA-MAILに連載中のコラム「フロムUK」のバックナンバーです。
ロンドンでの生活で遭遇した出来事や日々感じたことなどを綴るこの連載の第一回は2000年8月。早いものでもうすぐ7年です。思えば最初の頃はPCがなくて、ワープロ原稿をファックスで送信していました。で、掲載されたビーメールを友だちに頼んでプリントアウトしてもらって・・・懐かしいです。
何らかの形として残したいと思っていたので、こうしてまとまった形で掲載していただけて嬉しいです。転載をご快諾くださったフロム・ビーさんにも感謝いたします。 (えつぜんこずえ)

『フロムUK』 2002年

No.16 <ハイネケン醸造所>

ご無沙汰しております。
年末年始以来宴会やイベントが続き、ようやく落ち着いたと思ったら先月はぎっくり腰のため、数日間自宅軟禁状態。
何とか回復したものの、拘束服を着せられた気分が抜けない。
人生は苦楽のバランスがとれているものだ、と妙に感心している今日この頃だ。

そんなブルーな気分でカレンダーを見ると、もう3月。そういえば、数年前の3月には酒・旅仲間のくろさんとアムステルダムにいたのだった。

今まで見学した醸造所の中で、とりわけ印象に残っているのが、数年前に訪れたアムステルダムのハイネケン醸造所だ。
1592年創業の醸造所は、敷地と輸送手段の拡大を目的に1988年に郊外に移転、跡地は現在博物館となっている。非常に充実した、見ごたえのある博物館なので、機会があればぜひ訪れてみて頂きたい。

しかし、ここの何が素晴らしいかと言うと、ガイド・ツアーによる見学後の試飲である。
大抵の醸造所では、試飲は1杯から2杯に限られているのが、ここでは45分間無制限一本勝負なのだ。ビアホールのような大きな試飲室には、4人がけのテーブルが並び、そこにはチーズやクラッカーのおつまみも用意されている。貧乏旅行者にはたまらない配慮である。

相席になったのは一人旅らしい男性旅行者だった。
席につき、ウエートレスさんが注文を聞きに来る。我々は満面に笑みを浮かべ、しかも同時に「ハイネケン」と答えた。
彼女は微笑み、向かいの男性の注文を聞いた。
「コークを…」
私もくろさんも一瞬耳を疑った。ウエートレスさんも「本当にそれで?」と訊いている。
いろいろな人がいるものだ。よほど、我々は驚いた顔をしていたに違いない。彼は軽く微笑んだ。

しかし、ビールが運ばれてくると、彼の姿は視界から消え「さすが本場」とうなずきながら、我々は飲みに集中していった。
それがよほど楽しそうだったのか、それとも空腹な貧乏旅行が露見したのか、向かいの彼は「これもどうぞ」と自分のつまみまでまわしてくれた。いい人だ。
朝一番10時のツアーに参加した我々は、朝食を食べていなかった。至福の時は飛ぶように過ぎ去り、一本勝負は終わった。

親切なお向かいさんに挨拶をし、千鳥足でビアホールを出て、次なる目的地の、より文化的な美術館へ向かうこととした。ここには、かの有名なレンブラントの「夜警」が展示されている。

美術館が近づいてくると、我々はどちらかともなく飲酒後のお決まりのせりふを口にしていた。
「まずトイレに行こう」
入り口で料金を払う頃には、全身尿意女2名が完成。「私に触るな殺してやる」状態だった。広い美術館の中、ようやくトイレを探し当て、生まれ変わったような気分になり、仕切りなおしで「夜警」に挑んだ…のだが、朝食抜きハイネケン1.5リットルはまずかった。
一部を除いて全体に暗いイメージの広大なキャンパスを前にした我々は、
「お〜、暗いよ。さすが夜警」
「素晴らしい」
と、完全に酔っ払いだった。そしてそのまま、美術館を後にした我々は、名画のかかった高級有料トイレに入った気分であった。

私もくろさんも美術館好きで、特にこの絵はくろさんが長年見たいと思っていたにもかわらず、ビール色の霞がかった暗い絵だったという記憶しか残っていない。
ああ、反省。

(『BEA-MAIL』2002年3月14日号(第110号)に掲載)


No.17 <ヘンリーとブレイクスピア>

3月末はイースター、これを境にイギリスは夏時間がはじまる。日がぐっと長くなり、あちこちのパブが外に席を出すようになる。ああ、いい季節だ。

さて、前回ギネスを少し離れたついでに、今日はイギリス伝統のビール「ビター」との浮気についてお話したいと思う。
これまでしつこいほどこのコラムで強調している通り、私はギネス派である。3年前にある土地を訪れるまで、イギリスのどこを旅行してもひたすらギネスを飲んでいた。
今思えば、非常に無粋な話なのだが、ギネスとの出会いのコラムで言ったように、私はええかっこしいなのだ。
これまた銘柄のわからないビールを注文するのは、私にとって至難の業なのである。

では3年前に何が起こったのか?
フライアー・パークのあるヘンリー・オン・テムズを訪れたのだ。ロンドンから電車で1時間。近いとは言え、住んでいるとなかなか腰を上げる機会がないものだ。
ビートルズ・ファンの友人と、ぜひジョージの家を見に行こうと、ある日ついに意を決して、テムズ川上流のこの町を訪れた。

観光案内所でジョージの家の行き方を聞き、去ろうとすると「ヘンリー・オン・テムズ・パブ・ガイド」というリーフレットがあるではないか。
それを手にとり、中を見るとこの町には「ブレイクスピア」の醸造所があるということだ。ジョージの家以外に目的のなかったこの小旅行が、がぜん楽しみになってきた。
そして、ジョージの家を見学したあと(これについて詳しく書くと、それだけでこの欄が終わってしまうので省略)、この感激を祝おうと、友人と私は川べりのパブ、エンジェルに突入した。いつもならここでギネスで乾杯…と相なるのだが、せっかく醸造所もあることだし、そしてジョージも飲んでいるかもしれないし、これはこの地ビールを試さねばファンではあるまいと、ひとつ浮気してみることとした。

いやいや、人間何でも試してみるものだ。ブレイクスピアはなかなかフルーティで飲みやすいビールである。
しかも、ラガーと違って炭酸が入っていないので、食事にもぴったりだ。フランス料理にワインが合うように、パブ・ランチにはビターがぴったりである。

川べりや町を散歩しつつ、休憩と称してパブに出入り、我々は結局3種類の生ブレイクスピアを堪能した。
最近はロンドンでも見かける「ブレイクスピア・ビター」と、もう少しアルコール度数が高めで、苦味と甘味が絶妙にブレンドされた「ブレイクスピア・スペシャル」、そして夏ビールの「ヘンリー・フーレー」である。これがまた、非常にけったいな響きだが、ヘンリー夏の風物詩「レガッタ・ボートレース」にちなんだ由緒ある名前なのだ。夏にぴったりの軽めのさわやかな味とのどごし、外のベンチで川を眺めながらのんびり飲むのに最高のビターだ。

友人と私はすっかりこのビターと町にはまり、夕方には帰る予定が、散策を続行。
旅のしめはパブでの夕食に決定し、かなりいい気分になっていた我々は「フーレー!」と乾杯。楽しい1日を終えたのであった。

以来、地ビールのある土地を訪れるときには必ずビターを試すようにしている。
当然当たりはずれがあるが、いろいろな味があり楽しいものである。
ブレイクスピアも工場見学を行なっているが、ガイドつきのツアーは最低人数5名から。この日は我々以外に希望者がいなかったため、残念ながら見送ることとなってしまった。
いつか実現したいものだ。

(『BEA-MAIL』2002年4月4日号(第113号)に掲載)


No.18 <ジュビリー・コンサート>

イギリスの天気予報は当たらないと言われるとおり、この日の予報は雨、実際の天気は曇り時々晴れに恵まれ、予定通り私は友人数名とともにグリーン・パークで中継されるコンサートの模様を見るべく、朝からポールのCDを聞き心の準備も万端にして、家を出た。
コンサート2時間前、我々一行はスクリーンがかろうじて見える場所に陣取り、お弁当とワインを開け、すっかりピクニック気分であった。

この週末はちょうどワールド・カップの開始と重なったため、みな慢性的な二日酔いのせいか、全体に陽気な雰囲気が漂っていた。
家族連れも多く、非常に牧歌的なピクニック風景が展開されていたので、私はこのままコンサートをのんびり見られるものと思っていたのだが、「世界のアイドル」リッキー・マーティンが登場すると、周囲の人々はピクニックを片付け徐々に立ちはじめ、瞬く間にスクリーンが見えなくなってしまった。
我々もワイン片手に立ち上がった。しかし、身長150センチの私にはリッキーの一部しか見えない! 
横を見るとお父さんに肩車をしてもらっている子どもが…。もう30年遅くしかもイギリスに生まれていたら…。
それでも、通常のコンサートのような押し合い状態ではまったくなく、非常に平和な状況だったため、私は隙間から見えるスクリーンでコンサートを楽しんだ。

9時の夕暮れには佳境に入り、クラプトンの「レイラ」から周囲はひたすら大合唱の嵐。トリのポールは拍手喝采で迎えられ、「愛こそはすべて」「ヘイ・ジュード」では全員が旗を振り、声を合わせて歌った。
数十万人と歌う「ヘイ・ジュード」では、まさに「生きていて良かった」と思える一瞬であった。

…と書いたものの、実は私はあまり覚えていない。花粉症の中、屋外で飲んだのがいけなかったのか、それとも安ワインがいけなかったのか、読者のみなさんにこの瞬間を報告せねば、と使命に燃えていたにもかかわらず、実際の飲酒量からは考えられないような酔い方をしてしまったのだ。
後に確認したところ、コンサート中の記憶はわりとはっきりしていて、出演者や演奏曲は「思いのほか」記憶に残っている。いかんせんスクリーンが見えなかったことが私の記憶をあやふやにしたのだろう。

ブライアン・ウィルソンの手が震えているのは見た。オジー・オズボーンも見た。クイーンはロジャー・テイラーがボーカルだった(しょぼい。ジョージ・マイケルを入れるべきだった)。どうもそのあたりから、記憶が怪しい。
確かにクラプトンは見た。しかし、ロッド・スチュワートはいつ出たんだ? もちろん「ヘイ・ジュード」はしっかり覚えている。「愛こそはすべて」も覚えている。途中トイレに行き(ポールの前に…と思い)、友人とはぐれてしまった私は、見ず知らずの家族と肩を組んで大合唱したのだ。非常に気持ちよかった。生きていて良かったと思った。

コンサート終了後、携帯電話で連絡を取り合い、友人とはめぐり合うことができたのだが、翌朝電話で確認したところ、私は「激しく幸せそうな顔で」「漫画のような歩き方」で登場したそうだ。
そりゃそうだ、こっちは「生きてて良かった」と感激していたのだから。
しかも、その後、歩行者天国になったピカデリーを絶唱しながら歩いて帰宅したらしい。いや、それは記憶している。
しかし、周囲の人が振り返り、「楽しそうねえ」という顔をして私のほうを見ていたとは知らなかった。ああ、反省。

フィナーレの花火も美しかったようだ。翌朝のニュースで見て感激した。なぜこんなスペクタクルを見逃したのだろう。待て、見逃したわけがない。私は現場にいたはずだ…。

(『BEA-MAIL』2002年6月12日号(第123号)に掲載)


No.19 < McCartney On McCartney >

【There's Only One Paul McCartney】6月2日(日) イギリス BBCテレビ
ポール60歳を記念して制作されたドキュメンタリー。同じ週に放映されたチャンネル5の『マッカートニー・オン・マッカートニー』(BEA-MAIL6月5日号参照)に比べ、インタビュー内容、映像ともに充実していた。生い立ちからビートルズ、ウイングス、ソロ時代と、BBCならではのニュース映像を使い、ポールの幅広いアート活動を紹介した。

エルヴィス・コステロ、カール・デイヴィス、シラ・ブラック、ボブ・ゲルドフ、トラヴィスらのインタビューも、非常に公平な視点で(ジョンと比較するのではなく)ポールについて語り、敬意を表していたのも印象的であった。

この種のドキュメンタリーは、ともすれば「身内の褒め殺し」に陥る可能性が大きいのだが、それはポール本人へのインタビューがない点と、プライベートには基本的に触れずアート活動にテーマを絞ったことによって、みごとに回避されている。

(『BEA-MAIL』2001年6月19日号(第124号)に掲載)


No.20 <「ジュビリー・コンサート」テレビ放映>

6月3日は、BBCでは朝から特別スケジュールでイベントのようすを報道した。
午前中から始まったコンサート・リハーサルのようすも中継され、シャーリー・バッシ−やトム・ジョーンズ、フィル・コリンズがインタビューに応じていた。
また、「愛こそはすべて」の合唱に先立ち、音楽面を取り仕切ったジョージ・マーティンとフィル・ラモーンも、特別インタビューを行なった。

「愛こそはすべて」は、スラウで式典に参列した女王が記念メトロノームにスイッチを入れると同時に、リバプールやマンチェスターをはじめとする国内各都市で合唱が行なわれた。
子どもたちによる歌がほとんどであったが、レゲエ風やヒンドゥ語バージョンの合唱もあり、多民族国家イギリスを思わせる光景だった。

ロンドンは天気予報に反し、暖かい陽気の1日となったため、バッキンガム宮殿の前には早くから人が集まり、宮殿の庭からもれてくるリハーサルの音に耳を傾けていた。
ポールは、コンサートでは演奏しなかった「ゲット・バック」や「オール・マイ・ラヴィング」をリハーサルで演奏していたようだ。

夜のコンサートはBBCが生中継を行なうほか、ロンドンでは宮殿前の大通りザ・マル、グリーン・パーク、セント・ジェームズ・パークに設置された大スクリーンでも中継され、抽選にはずれた10数万人がコンサートを楽しんだ。

(『BEA-MAIL』2002年6月26日号(第125号)に掲載)


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